| 2020/07/24(Fri) 19:27:50 編集(投稿者)
レスありがとうございます。
■No4493に返信(minoriさんの記事) > >西田哲学に「純粋経験:主観・客観が区別される以前の直接経験」というのがあって、認識プロセスにある分別や加工、記憶との照合以前のコンタクトを「観照」と言うのであれば「背景の壁や周りの雑草なども一枚の絵のように観ずる」というところを除けば〈私〉は「観照」でもって観ずることが可能かもしれません。但し、〈私〉はその周りや背景がないため、それらと一如に観ずることはできません。
> う〜ん。。。すみません。せっかく書いていただいたのにわからないです。 > 西田幾多郎の純粋経験というのの、ごくごくごく初歩的な部分についての内容はわかりますが。。。 > 〈私〉はその周りや背景がないため、というところはまったくわかりません。
順を追って説明した方が分かりやすいと思います。 「観照」「純粋経験」は一旦、棚上げしていただいて。。。 添付した画像は分かりますでしょうか? 〈私〉の「眼」が世界を見ているところ(眼から世界が広がっているところ)で、ウィトゲンシュタインが論考で採用している図です。 分からなければ遠慮せずに分からないと返して下さい。 違う切り口の説明から始めてみみます。
> パニチェさんがおっしゃる〈私〉を少しでも知れたらいいな、と思い質問させていただいたのですが、暗中模索です。 > 説明めんどくさいわ〜、と思われたら中止してくださいね。 > こちらから止める時というのは、めんどくさいのではなく不可能(能力不足)と思っていただければと思います。
了解しました。 私は、全然、めんどくさくないですよ。^^
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