| パニチェさん、レスありがとうございます。
>> はい。辞書的な意味としてはおそらくどの辞書でも同じようになってると思います。 >> ただ。非二元の探究の分野で「観照」という言葉が出てくるのですが、そこでの観照というのは、観察とは違います。 >>> 具体的にヒマワリを観る例で言いますと。 >> 葉があり、太い茎があり茎の上に黄色い花があり、花は花びらと種になる部分から構成されている、というふうに分別して観るのが観察。 >> ヒマワリを観ようという意志なしに、ヒマワリが目に飛び込んではいる状態の時、ヒマワリだけでなく、背景の壁や周りの雑草なども一枚の絵のように観ている状態。それが観照になります。
>やっぱ先に確認して良かったです。またまた的外れな返信をするところでした。^^; >> 「観照」ということと、パニチェさんの〈私〉というのは関係がありますか? > >それは「観照」ということと関係がありますか?という質問になります。
>西田哲学に「純粋経験:主観・客観が区別される以前の直接経験」というのがあって、認識プロセスにある分別や加工、記憶との照合以前のコンタクトを「観照」と言うのであれば「背景の壁や周りの雑草なども一枚の絵のように観ずる」というところを除けば〈私〉は「観照」でもって観ずることが可能かもしれません。但し、〈私〉はその周りや背景がないため、それらと一如に観ずることはできません。
う〜ん。。。すみません。せっかく書いていただいたのにわからないです。
西田幾多郎の純粋経験というのの、ごくごくごく初歩的な部分についての内容はわかりますが。。。
〈私〉はその周りや背景がないため、というところはまったくわかりません。
>で、以下は〈私〉の補足説明の意味も兼ねて、参考までに「観照」を「主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ること。(goo辞書より)」と定義すれば以下の返信になりました。
>〈私〉に限らず対象を主観をまじえないで観察するということは不可能だと思います。 >自己反省や己の心の動きを観察する内観なら「観照」というか「中道」所謂「ニュートラルなスタンスで両極に偏ることなく」観ずることは重要だと思いますが、〈私〉に関しては観るのも主観(能観の体)なら観られるのも主観(所観の境)です。
観照と観察は、違うものです。 観察は、区分するもので意志的に行うもの。 観照は、「観照している気づき」で、カントの感性の形式に近いと思います。 そこに「現れ」として一連の途切れないものとして流れてくる、そういう状態が観照です。 そのあたりを「一枚の絵のように」と先ほど書いたのですが、かえってわかりずらくなってしまったかもしれません。
>目で目を観ることができない、鏡で鏡を映し出すことができないのと同じく、〈私〉を観ることは不可能だと思います。 >さらに〈私〉自体には明らかにするような意味がない(言い換えれば、言語で表現可能な意味がない)とも言えます。 >よって「観照不能な対象」として〈私〉を捉えることができるという意味ではキーワードにはなりますが、〈私〉は「観照不能な対象」ということから無関係とも言えます。
つまり、〈私〉というのは、「観照不能な対象」だということですね。
非二元で言う「観照している気づき」というのも、気づく側であってそれ自体を観ることはできないというものです。
パニチェさんがおっしゃる〈私〉を少しでも知れたらいいな、と思い質問させていただいたのですが、暗中模索です。 説明めんどくさいわ〜、と思われたら中止してくださいね。 こちらから止める時というのは、めんどくさいのではなく不可能(能力不足)と思っていただければと思います。 |