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■30710  Re[68]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/15(Mon) 20:06:22)
    ネットで、ラカンの鏡像段階について書いてあると思われるわたしが見た資料は、
    (1)鏡像認知 - 脳科学辞典 (neuroinf.jp)
    (2)鏡像段階理論 (kagurakanon.sakura.ne.jp)
    (3)第9回 メルロ=ポンティとジャック・ラカン ─ 鏡像段階をめぐって ─ | 加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」 | web ふらんす (hakusuisha.co.jp)
    (4)「私を消す」とはどういうことか(2ページ目) | 日経クロステック(xTECH) (nikkei.com)
    (5)ラカン (www.ne.jp)
    (6)ジャック・ラカン - Wikipedia
    (7)鏡像段階(きょうぞうだんかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
    で〜す。
    これらから〈わたしが抽出した〉ところを書いとく。

    (1)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (1)-@チンパンジーを対象にした鏡像認知 
    Gallupは、チンパンジーの自己認識を調べるため、鏡を見たことのないチンパンジーに鏡を見せて,その様子を観察した。鏡を見せた当初は,鏡に映った像に対して威嚇するような行動をとるなど,その像が自分であるとは認識している様子はなく,むしろ他者がいるかのように振る舞っていた。ところが,数日もたつとこのような行動はなくなり,むしろ,鏡を使って歯の隙間に挟まった食べ物をとるなど,自分の体を整えるような行動が見られるようになった。より実験的に自己認識を調べるため、マークテストを実施した。この実験では、チンパンジーが麻酔をされている間に,眉や耳のあたりに赤い染料をつけられた。そして,麻酔から醒めた後に,チンパンジーがどのような行動をとるかが検討された。その結果,鏡を見せる前には,チンパンジーは赤い染料部分がつけられた部分をほとんど触れないのに対して,鏡を見せた後にはその部分を頻繁に触れることが観察された。鏡を使って自分自身に対して行動が向けられたことから,チンパンジーは鏡に映った像を自分であると理解できると結論づけられた。

    (1)-Aヒト幼児を対象にした鏡像認知 
     ヒト乳幼児を対象にした鏡像認知実験は,口紅などをつけるのでルージュテストと呼ばれることが多い。これまでの研究によると,ルージュテストに通過できるようになるのは,2歳前後だと結論づけられている。1歳以下の乳児は鏡を見せられても,チンパンジーが初めて鏡に接したときと類似して,他者に対するようにふるまう。18か月以降になると,鏡に映った自己像を見て,自分の顔についた染料を触れるようになる。2歳を過ぎるころには,多くの子どもがこのルージュテストに通過することができるようになる。このことと関連して,2歳前後になると,写真に写った自分を理解できるようにもなる。
     さらに,この時期の子どもは,恥ずかしがったりするなど,自己と関連するような感情を示すようになり,自分の名前を呼ぶようになったりもする。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2)から
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は鏡に映った自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せる。この反応はチンパンジーの、鏡の自己像に一旦興味は示すもののそれが単なる鏡像だと分かればたちまち興味を失ってしまうそれとは対照的である。このような発達過程をフランスの精神分析医、ジャック・ラカンは鏡像段階と名付けた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (3)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (3)-@幼児が自他未分化の「癒合的社会性」を生きているところから、どのようにして自己と他者との境界線が引かれるようになるのか?──その契機となるのは「鏡像段階stade du miroir」。発想の源はジャック・ラカンに負っている。
                                                               
    (3)-Aパンジーであれば、鏡に映った自分の姿を見ても、ひとたびその鏡像が生きたものではないということを確かめさえすれば、それで事足れりとなるけれど、人間の子供はそうではない。ラカンは、幼児が「ああそうか体験 Aha-Erlebnis」の際の輝くような表情とともに自分の姿をそれと認知するのだと言う。そして、幼児はこの像に対し、精神分析学で言うところの「同一視 identification」を行ない、これによって彼の内には決定的な変容が生じてくることになるだろう。                                                    

    (3)-Bつまるところ、鏡とともに、幼児はまず、自分自身の視像があること、また、ひいては自分自身の統一像があることを学び、みずからが内受容性の側面だけではなく外面をも持っていることを知るようになる。だが、こうした自身の像は、自己認識を可能にしてくれると同時に、一種の自己疎外をもたらすことにもなるだろう。私は、私によって生きられている(自我の)現実性から引きはがされ、絶えず理想的・虚構的・想像的自我に関わることとなるのである。
    内受容的自我から可視的自我への移行、それはとりもなおさず、精神分析学で言う「自我」から「超自我」への移行でもあるわけだ。                                                  

    そうした次第で、メルロ=ポンティは、このラカンの基本的な発想を換骨奪胎し、次のような表現にまとめている。
    (3)-C鏡像は、「私なるものが初め或る原初的形態のままそこに立ち現われ、やがて自他を同一視するという弁証法の中であわただしくおのれを客観化していく、その『象徴的母胎』」にほかなりません。(「幼児の対人関係」『眼と精神』所収pp.163-164。ただし、括弧で引用の形をとっている部分は『エクリ』とはまるで違っている) 

    (3)-Dもっとも、鏡像は、自己疎外や自己の客観化というレベルだけではなく、ひいては他人による私の疎外までも示唆しているわけで、メルロ=ポンティはさらに次のように続けることとなる。               
    そうした直接的な自己の疎外、鏡の中に見える自己によってなされる〈直接的な自己の押収〉は、すでに、自己を見つめる他人によってなされる〈自己の押収〉がどんなものであるかを素描していることになります。(同上p.165)

    (3)-E私たちは、自他未分化の癒合的社会性から遠く離れて、今や、心理作用をすっかり皮袋の向こう側に閉じこめてしまった「他者」を語っていることになるだろう。もちろん、癒合的社会性から鏡像段階を経て他者へと到る道筋を、これほど単純化して語るのはいかがなものかと反論もされそうだが、これを細かく語る紙幅はない。要は、この方向でなければ、他者問題が解決される望みはないということである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (4)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・「他人」の行動を「私」の側に映すというよりも,そもそも「私」というものを外部に作り出すための一つの「装置」ではないのか,とも思うのである。
    ・自我は自己の無意識を知らず、自己の同一性を維持するために、常に偽るものなのである。
    ・自我の同一性は、自我の外部にあり、自我は自己から疎外されている。
    ・言い換えれば、自己を他者と同一化することで、自我は自己の同一性を確保する。そうしなければ、自分の居場所が奪われてしまうからである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (5)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (5)-@切断された身体
    人間は、大脳が発達したせいで、常に未熟児の状態で生まれてくる。
    したがって、幼児は、神経系が未発達なので、統一した自己の身体的イメージを持てない。
    (5)-A鏡の中の他者
    前エディプス期(6ヶ月〜18ヶ月)において、鏡の中の像を「自己」として認めることで自己の同一性が得られる。
    私とは(鏡の中の、あの)他者である。
    (5)-B承認と他者の欲望
    これには母という他者の承認が必要である。
    幼児は、母という他者の欲望を通じてしか、自分の欲望を満たすことができない。
    欲望とは、本質的に、「他者の欲望」である。
    (5)-C鏡像段階
    「ラカンによる、人間形成の一時期をさす言葉。それは生後6ヵ月から18ヶ月の間に当たる。この時期子供はまだ無力で、運動調節能力もない状態であるが、自分の身体の統一性を想像的に先取りして我が物とする。この想像的統合は、全体的な形態として同じ姿をもった人間の像への同一化によって行われる。そしてその同一化は、幼児が鏡の中に自分の像を見るという具体的経験を通して起こり、現実のものとなって行く。鏡像段階において、将来自我となるものの雛型ないし輪郭が形成されると言えよう。

    (5)-D鏡像段階が、人間がはじめて自分が人間であるという経験をする原初の出来事であるとすると、人間が自分を認知するのは他者の像(他なる鏡)においてであることになる。人間はまずはじめに、他者として自分を生き自分を体験する。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (6)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    幼児は、いまだ神経系が未発達であるため、自己の「身体的統一性」(仏:unit&#233; corporelle)を獲得していない。つまり、自分が一個の身体であるという自覚がない。言い換えれば、「寸断された身体」(仏:corps morcel&#233;)のイメージの中に生きているわけである。
    そこで、幼児は、鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡とは、まぎれもなく他者のことでもある。つまり、人は、他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。

    すなわち、人間というものは、それ自体まずは空虚なベース(エス)そのものである。一方、自我とは、その上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性を覆い隠す(主として)想像的なものである。自らの無根拠や無能力に目を瞑っていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではある。この段階が、鏡像段階に対応する。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (7)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    日本大百科全書(ニッポニカ)
    鏡像段階になると幼児は自分の姿が鏡に映っていることに特別の関心を示し欣喜雀躍(きんきじゃくやく)する。
    この発達段階以前では、幼児の身体的動きは全体として協応しておらず、ばらばらな運動をしている。この時期になって初めて統一のとれた運動ができるようになり、鏡に映った自分の姿は幼児の全体像を表すようになる。つまり、幼児は鏡像によって、初めて自己の全体像をつくりあげるようになる。とはいえ、幼児が自分の姿と思っているものは鏡に映し出されたものであり、自己疎外された鏡像にすぎない。この意味で幼児の自我は、鏡像を通してつくられるもので、幼児が自我とみなしているものは、自分自身ではなく、眼前に差し出された鏡像(他者)なのである。この鏡像と根源的な同一視をする幼児にとって、自我とは他者にほかならない。鏡像段階は、こうした対人関係の基本的構造を示したものであるが、幼児の対人関係だけでなく、一般的な対人関係の構造を示すものと理解されている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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