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■30891 / inTopicNo.1)  Re[75]: 言葉のざわめきの下
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/30(Tue) 19:48:43)
    ラカンの「鏡像段階」の資料、
    No30710の(4)、あんまり参考にならないからわたしのうちから削除することにした。
    あと、
    (7)の日本大百科全書(ニッポニカ) に書いてあったのを全部書いとくことにする。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    日本大百科全書(ニッポニカ)
    フランスの精神分析学者ラカンの用語。生後6か月から1歳半に至る発達段階のことをいう。幼児の自我は身体像を通して形成されるが、鏡像段階以前では身体像は全体として統一のとれたものでなく、ばらばらに寸断されたものであり、「寸断された身体」とよばれる。鏡像段階になると幼児は自分の姿が鏡に映っていることに特別の関心を示し欣喜雀躍(きんきじゃくやく)するが、これは全体としてまとまりのある身体像をみいだすことができるからであり、全体としてまとまりのある自分というものを発見することができるからである。この発達段階以前では、幼児の身体的動きは全体として協応しておらず、ばらばらな運動をしている。この時期になって初めて統一のとれた運動ができるようになり、鏡に映った自分の姿は幼児の全体像を表すようになる。つまり、幼児は鏡像によって、初めて自己の全体像をつくりあげるようになる。とはいえ、幼児が自分の姿と思っているものは鏡に映し出されたものであり、自己疎外された鏡像にすぎない。この意味で幼児の自我は、鏡像を通してつくられるもので、幼児が自我とみなしているものは、自分自身ではなく、眼前に差し出された鏡像(他者)なのである。この鏡像と根源的な同一視をする幼児にとって、自我とは他者にほかならない。鏡像段階は、こうした対人関係の基本的構造を示したものであるが、幼児の対人関係だけでなく、一般的な対人関係の構造を示すものと理解されている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    No30688にあるような、
    「私と他者との区別ができていない」
    「主・客未分状態」
    「自己と他者との未分化状態」
    「情動融合状態」
    No30710の(3)にあるような、
    「自他未分状態」
    「癒合的社会性」

    っていう状態っていうのはどういう状態なの?をいま考えてる。
    これらをまとめて、〈私と他人の融合状態〉でもいいんだけど、〈自他の融合(癒合)状態〉って呼ぶことにする。
    わたしこの状態の(私)を〈体自〉って呼ぶことにしたので、これ使ってくことにしてる。

    鏡像段階(生後6ヵ月〜18ヵ月)で問題となってるのは、〈自他融合状態の(私)〉(体自)が初めて鏡を見たときのこと?

引用返信/返信 削除キー/
■30890 / inTopicNo.2)  Re[74]: 言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/30(Tue) 19:45:20)
    No30845、マジモンさん、

    >チンパンジーと鏡なんだが、霊長類は確かに、鏡を見て『 自分 』を理解しているようなんだが…そもそも森に鏡がないんだ。<

    >そもそも森に鏡がないいんだ<
    そうよね〜。

    No30710の資料のなかから、鏡像、チンパンジーの場合について書いてあるところを抜き出して見ると、
    (1)-@から
    〔鏡を見せた当初は,鏡に映った像に対して威嚇するような行動をとるなど,その像が自分であるとは認識している様子はなく,むしろ他者がいるかのように振る舞っていた。ところが,数日もたつとこのような行動はなくなり,むしろ,鏡を使って歯の隙間に挟まった食べ物をとるなど,自分の体を整えるような行動が見られるようになった。〕
    〔チンパンジーは鏡に映った像を自分であると理解できると結論づけられた。〕
    (2)から
    〔チンパンジーの、鏡の自己像に一旦興味は示すもののそれが単なる鏡像だと分かればたちまち興味を失ってしまう〕
    (3)-Aから
    〔チンパンジーであれば、鏡に映った自分の姿を見ても、ひとたびその鏡像が生きたものではないということを確かめさえすれば、それで事足れりとなる〕

    でね、チンパンジーの生態をネットで調べて見たのね。
    チンパンジーについて-京都大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリ (kyoto-u.ac.jp)
    によると、
    チンパンジーは基本的に集団で生活しているみたい。
    でね、ちょっとわたしの想像を書いて見ると、
    チンパンジーはたぶん仲間の容姿を知っているんだと思う。でも自分の顔は知らない(森には鏡がないから。ひょっとしたら水面に映ったのを見てるかもだけど)。そこに鏡を登場させてみたら、〔鏡を見せた当初は,鏡に映った像に対して威嚇するような行動をとる〕――これって、最初自身が写った鏡像を見て、〈仲間ではないチンパンジーが現れた〉って感じたんじゃないかしら?ようするに、(自身が映った鏡像は)仲間ではない「よそ者(他者)」って感じたのね。そのうちに〔その鏡像が生きたものではない〕、〔鏡に映った像を自分であると理解〕するってなるみたい。ようするに、〈自身を映すなにか「物」がある〉、っていうことを知ったんじゃないかしら?

    チンパンジーに限らず人類も、
    「自身の顔を直接見ることはできない」
    これは確かね。

    野生のチンパンジーのばあい、ひょっとしたら一生自分の顔を見ることがないかもしれない。

    ってすると〜、ラカンの鏡像段階っていうのはどうことなのかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■30889 / inTopicNo.3)  NO TITLE
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/30(Tue) 19:41:27)
    しばらく喪だったのね。
    ニークラは毎日見てたけど、書き込む気力がなかった。

    みのりさん、お気遣いありがと。なんかうれしい。

    この場でちょっと、
    『シュレディンガーの猫がいっぱい』じゃなくて、「シュレーディンガーの猫」でネットで調べて見たよ。
    毒ガスで猫を殺す、っていう思考実験みたいね。で、猫が死んでるか死んでないかは50%50%で、観察してみないと分からない、みたいな〜?猫じゃなくて人で思考実験してみたらよかったのにね、ほら、アウシュビッツのように。
    結局、「量子力学」っていう「科学」の範疇での話でしかないんじゃないかな〜、って。
    毒ガスって科学者が発明したんじゃないかしら?
    科学って凄いじゃん。

引用返信/返信 削除キー/
■30845 / inTopicNo.4)  言葉のざわめきの下
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/05/27(Sat) 01:12:41)
    チンパンジーと鏡なんだが、霊長類は確かに、
    鏡を見て『 自分 』を理解しているようなんだが…
    そもそも森に鏡がないんだ。
引用返信/返信 削除キー/
■30733 / inTopicNo.5)  Re[71]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/17(Wed) 20:10:05)
    No30726
    >私?
    >私よ、私…、マジモンだよ
    うん。、そうね。

    わたし、悪魔ちゃん。

引用返信/返信 削除キー/
■30726 / inTopicNo.6)  Re[70]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/05/16(Tue) 20:34:02)
    2023/05/16(Tue) 22:52:53 編集(投稿者)

    No30724に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > で、ちょっとマジモンさんに聞くね。
    >
    > 「あんた、誰?」
    >

    私?
    私よ、私…、マジモンだよ (笑)


    【追記】

    絶対に、これは『 私 』と言えるもんがある。
    それはトラウマ
    私のトラウマだけは、『 私 』としかいいようがない。

    本能に刻み込まれたトラウマは、回避できない。
    『 私 』はレコード盤のような記録のようなもんだと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■30724 / inTopicNo.7)  Re[69]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/16(Tue) 19:30:21)
    あら、マジモンさん、

    No30716
    >『 私 』って誰?どこにいる?<
    って思ってくれたのね。
    なんかうれしい。

    ほら、ここ、ニークラっていうパニさんのところでしょ?
    わたし、pipitさまのつてで、パニさん宅にたまたまお邪魔してわたしのお喋りしてるみたいなんだけどね。

    パニさんのテーマ的な一つとして、私を話題にしてるみたいだし?
    あ、〈私〉って括弧で括ってるみたいね?わたしは「私」って括弧で括ってるでど。

    こういうんから、「ラカンの鏡像段階」っていうの、なんか堅苦しく言うと「私とは何か?」みたいなんに関係してると、わたし思ってるのね。

    で、ちょっとマジモンさんに聞くね。

    「あんた、誰?」




引用返信/返信 削除キー/
■30716 / inTopicNo.8)  Re[68]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/05/16(Tue) 07:37:35)
    No30709に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 「意識」で見て、
    > 「鏡と再認の一構造 −H・ワロンの身体意識論− 鈴木一策」
    > っていう題にある「身体意識」ってどういう意識?で、ネットで調べたら、
    > @身体意識(Body Awareness)とは | BODY AWARENESS OF WINE
    > @代表的な身体意識 | BODY AWARENESS OF WINE
    > っていうのが出てきた。でも読んで見ると、鈴木さんの言う「H・ワロンの身体意識論」みたいなのとは違う感じ。
    >
    > で、感覚も意識の一種ってわたし思ってるから、「身体感覚」で調べてら、
    > @コトバンク
    > @体性感覚−脳科学
    > にあった。
    > これらをわたしがまとめたのを添付しときま〜す。
    >
    > あ、ちなみに、「身体知覚」っていうのもネットで検索して見たけど、いまの話題とそれる内容のだった。

    はい、おはようございます、悪魔ちゃん。

    このスレを読んで思う事…、『 私 』って誰?どこにいる?
引用返信/返信 削除キー/
■30710 / inTopicNo.9)  Re[68]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/15(Mon) 20:06:22)
    ネットで、ラカンの鏡像段階について書いてあると思われるわたしが見た資料は、
    (1)鏡像認知 - 脳科学辞典 (neuroinf.jp)
    (2)鏡像段階理論 (kagurakanon.sakura.ne.jp)
    (3)第9回 メルロ=ポンティとジャック・ラカン ─ 鏡像段階をめぐって ─ | 加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」 | web ふらんす (hakusuisha.co.jp)
    (4)「私を消す」とはどういうことか(2ページ目) | 日経クロステック(xTECH) (nikkei.com)
    (5)ラカン (www.ne.jp)
    (6)ジャック・ラカン - Wikipedia
    (7)鏡像段階(きょうぞうだんかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
    で〜す。
    これらから〈わたしが抽出した〉ところを書いとく。

    (1)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (1)-@チンパンジーを対象にした鏡像認知 
    Gallupは、チンパンジーの自己認識を調べるため、鏡を見たことのないチンパンジーに鏡を見せて,その様子を観察した。鏡を見せた当初は,鏡に映った像に対して威嚇するような行動をとるなど,その像が自分であるとは認識している様子はなく,むしろ他者がいるかのように振る舞っていた。ところが,数日もたつとこのような行動はなくなり,むしろ,鏡を使って歯の隙間に挟まった食べ物をとるなど,自分の体を整えるような行動が見られるようになった。より実験的に自己認識を調べるため、マークテストを実施した。この実験では、チンパンジーが麻酔をされている間に,眉や耳のあたりに赤い染料をつけられた。そして,麻酔から醒めた後に,チンパンジーがどのような行動をとるかが検討された。その結果,鏡を見せる前には,チンパンジーは赤い染料部分がつけられた部分をほとんど触れないのに対して,鏡を見せた後にはその部分を頻繁に触れることが観察された。鏡を使って自分自身に対して行動が向けられたことから,チンパンジーは鏡に映った像を自分であると理解できると結論づけられた。

    (1)-Aヒト幼児を対象にした鏡像認知 
     ヒト乳幼児を対象にした鏡像認知実験は,口紅などをつけるのでルージュテストと呼ばれることが多い。これまでの研究によると,ルージュテストに通過できるようになるのは,2歳前後だと結論づけられている。1歳以下の乳児は鏡を見せられても,チンパンジーが初めて鏡に接したときと類似して,他者に対するようにふるまう。18か月以降になると,鏡に映った自己像を見て,自分の顔についた染料を触れるようになる。2歳を過ぎるころには,多くの子どもがこのルージュテストに通過することができるようになる。このことと関連して,2歳前後になると,写真に写った自分を理解できるようにもなる。
     さらに,この時期の子どもは,恥ずかしがったりするなど,自己と関連するような感情を示すようになり,自分の名前を呼ぶようになったりもする。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2)から
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は鏡に映った自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せる。この反応はチンパンジーの、鏡の自己像に一旦興味は示すもののそれが単なる鏡像だと分かればたちまち興味を失ってしまうそれとは対照的である。このような発達過程をフランスの精神分析医、ジャック・ラカンは鏡像段階と名付けた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (3)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (3)-@幼児が自他未分化の「癒合的社会性」を生きているところから、どのようにして自己と他者との境界線が引かれるようになるのか?──その契機となるのは「鏡像段階stade du miroir」。発想の源はジャック・ラカンに負っている。
                                                               
    (3)-Aパンジーであれば、鏡に映った自分の姿を見ても、ひとたびその鏡像が生きたものではないということを確かめさえすれば、それで事足れりとなるけれど、人間の子供はそうではない。ラカンは、幼児が「ああそうか体験 Aha-Erlebnis」の際の輝くような表情とともに自分の姿をそれと認知するのだと言う。そして、幼児はこの像に対し、精神分析学で言うところの「同一視 identification」を行ない、これによって彼の内には決定的な変容が生じてくることになるだろう。                                                    

    (3)-Bつまるところ、鏡とともに、幼児はまず、自分自身の視像があること、また、ひいては自分自身の統一像があることを学び、みずからが内受容性の側面だけではなく外面をも持っていることを知るようになる。だが、こうした自身の像は、自己認識を可能にしてくれると同時に、一種の自己疎外をもたらすことにもなるだろう。私は、私によって生きられている(自我の)現実性から引きはがされ、絶えず理想的・虚構的・想像的自我に関わることとなるのである。
    内受容的自我から可視的自我への移行、それはとりもなおさず、精神分析学で言う「自我」から「超自我」への移行でもあるわけだ。                                                  

    そうした次第で、メルロ=ポンティは、このラカンの基本的な発想を換骨奪胎し、次のような表現にまとめている。
    (3)-C鏡像は、「私なるものが初め或る原初的形態のままそこに立ち現われ、やがて自他を同一視するという弁証法の中であわただしくおのれを客観化していく、その『象徴的母胎』」にほかなりません。(「幼児の対人関係」『眼と精神』所収pp.163-164。ただし、括弧で引用の形をとっている部分は『エクリ』とはまるで違っている) 

    (3)-Dもっとも、鏡像は、自己疎外や自己の客観化というレベルだけではなく、ひいては他人による私の疎外までも示唆しているわけで、メルロ=ポンティはさらに次のように続けることとなる。               
    そうした直接的な自己の疎外、鏡の中に見える自己によってなされる〈直接的な自己の押収〉は、すでに、自己を見つめる他人によってなされる〈自己の押収〉がどんなものであるかを素描していることになります。(同上p.165)

    (3)-E私たちは、自他未分化の癒合的社会性から遠く離れて、今や、心理作用をすっかり皮袋の向こう側に閉じこめてしまった「他者」を語っていることになるだろう。もちろん、癒合的社会性から鏡像段階を経て他者へと到る道筋を、これほど単純化して語るのはいかがなものかと反論もされそうだが、これを細かく語る紙幅はない。要は、この方向でなければ、他者問題が解決される望みはないということである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (4)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・「他人」の行動を「私」の側に映すというよりも,そもそも「私」というものを外部に作り出すための一つの「装置」ではないのか,とも思うのである。
    ・自我は自己の無意識を知らず、自己の同一性を維持するために、常に偽るものなのである。
    ・自我の同一性は、自我の外部にあり、自我は自己から疎外されている。
    ・言い換えれば、自己を他者と同一化することで、自我は自己の同一性を確保する。そうしなければ、自分の居場所が奪われてしまうからである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (5)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (5)-@切断された身体
    人間は、大脳が発達したせいで、常に未熟児の状態で生まれてくる。
    したがって、幼児は、神経系が未発達なので、統一した自己の身体的イメージを持てない。
    (5)-A鏡の中の他者
    前エディプス期(6ヶ月〜18ヶ月)において、鏡の中の像を「自己」として認めることで自己の同一性が得られる。
    私とは(鏡の中の、あの)他者である。
    (5)-B承認と他者の欲望
    これには母という他者の承認が必要である。
    幼児は、母という他者の欲望を通じてしか、自分の欲望を満たすことができない。
    欲望とは、本質的に、「他者の欲望」である。
    (5)-C鏡像段階
    「ラカンによる、人間形成の一時期をさす言葉。それは生後6ヵ月から18ヶ月の間に当たる。この時期子供はまだ無力で、運動調節能力もない状態であるが、自分の身体の統一性を想像的に先取りして我が物とする。この想像的統合は、全体的な形態として同じ姿をもった人間の像への同一化によって行われる。そしてその同一化は、幼児が鏡の中に自分の像を見るという具体的経験を通して起こり、現実のものとなって行く。鏡像段階において、将来自我となるものの雛型ないし輪郭が形成されると言えよう。

    (5)-D鏡像段階が、人間がはじめて自分が人間であるという経験をする原初の出来事であるとすると、人間が自分を認知するのは他者の像(他なる鏡)においてであることになる。人間はまずはじめに、他者として自分を生き自分を体験する。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (6)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    幼児は、いまだ神経系が未発達であるため、自己の「身体的統一性」(仏:unité corporelle)を獲得していない。つまり、自分が一個の身体であるという自覚がない。言い換えれば、「寸断された身体」(仏:corps morcelé)のイメージの中に生きているわけである。
    そこで、幼児は、鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡とは、まぎれもなく他者のことでもある。つまり、人は、他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。

    すなわち、人間というものは、それ自体まずは空虚なベース(エス)そのものである。一方、自我とは、その上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性を覆い隠す(主として)想像的なものである。自らの無根拠や無能力に目を瞑っていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではある。この段階が、鏡像段階に対応する。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (7)から、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    日本大百科全書(ニッポニカ)
    鏡像段階になると幼児は自分の姿が鏡に映っていることに特別の関心を示し欣喜雀躍(きんきじゃくやく)する。
    この発達段階以前では、幼児の身体的動きは全体として協応しておらず、ばらばらな運動をしている。この時期になって初めて統一のとれた運動ができるようになり、鏡に映った自分の姿は幼児の全体像を表すようになる。つまり、幼児は鏡像によって、初めて自己の全体像をつくりあげるようになる。とはいえ、幼児が自分の姿と思っているものは鏡に映し出されたものであり、自己疎外された鏡像にすぎない。この意味で幼児の自我は、鏡像を通してつくられるもので、幼児が自我とみなしているものは、自分自身ではなく、眼前に差し出された鏡像(他者)なのである。この鏡像と根源的な同一視をする幼児にとって、自我とは他者にほかならない。鏡像段階は、こうした対人関係の基本的構造を示したものであるが、幼児の対人関係だけでなく、一般的な対人関係の構造を示すものと理解されている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    字数以内におさめられたかな?

    このつづきの〈わたしの〉はあとで。

引用返信/返信 削除キー/
■30709 / inTopicNo.10)  Re[67]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/15(Mon) 19:48:03)
    「意識」で見て、
    「鏡と再認の一構造 −H・ワロンの身体意識論− 鈴木一策」
    っていう題にある「身体意識」ってどういう意識?で、ネットで調べたら、
    @身体意識(Body Awareness)とは | BODY AWARENESS OF WINE
    @代表的な身体意識 | BODY AWARENESS OF WINE
    っていうのが出てきた。でも読んで見ると、鈴木さんの言う「H・ワロンの身体意識論」みたいなのとは違う感じ。

    で、感覚も意識の一種ってわたし思ってるから、「身体感覚」で調べてら、
    @コトバンク
    @体性感覚−脳科学
    にあった。
    これらをわたしがまとめたのを添付しときま〜す。

    あ、ちなみに、「身体知覚」っていうのもネットで検索して見たけど、いまの話題とそれる内容のだった。

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30.jpg
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引用返信/返信 削除キー/
■30690 / inTopicNo.11)  Re[66]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/14(Sun) 13:16:16)
    もうちょっと、「鏡と再認の一構造 −H・ワロンの身体意識論− 鈴木一策」のを。
    No306880の(A)にあるような、
    〔情動時に周囲に単に共存したものをすべて融合してしまうのである〕
    とか
    〔情動融合状態〕
    の「情動」なんだけど、
    0歳〜1歳のころの意識(原初自然な世界)、「情動」っていうの、「感情」とか、もっと原初的には「快・不快」かな、は、はずせないよね。あ、もっとも大人になってもこういうのけっこうあるきがしてる。

    「情動」と「知覚」の関係について、この本の中で、
    〔六ケ月頃になって視知覚が安定したものとなってくる時,それ以前では,近くの子が泣きだすと伝染して泣いていた子が,泣いている子を眺めている例にみられるように,知覚作用は情動を静める関係にあるのである。〕
    ってあった。

    あと、こんなことも言ってる。
    〔耳をそばだてて聞こうとするから聞こえるわけである〕
    これって「意識の志向性」っていうのをわたし想い出す。

    ひとまずこの本からわたしに思われたのはだいたいこんなところかな。

    次からは本題のラカンの鏡像段階を見ていくことにする予定〜。

引用返信/返信 削除キー/
■30688 / inTopicNo.12)  Re[65]:  言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/14(Sun) 10:01:17)
    「鏡と再認の一構造 −H・ワロンの身体意識論− 鈴 木 一 策」を読んで見て、よくわかんなかったけど、これに書かれてあることから、わたしに気づかれたのを書いとく。

    〔ワロンが定式化した・自己知覚,内部知覚,外部知覚,情動〕って鈴木さんは言ってる。
    知覚を「自己知覚」「内部知覚」「外部知覚」って分けてるみたい。たぶん「外部知覚」っていうのは、私の外にあるものの知覚、っていうことだと思う。わたし「外部知覚」だけしか見てなかった気がして反省してる。

    で、それぞれどんな知覚なんかを見て見ると、
    〔内部知覚器の興奮(尿意,空腹など),自己知覚器の興奮(体位姿勢に対して主として関節が感じる)のみを中心として,親と情動的交流をする他ない生後数週間の新生児は,かの条件反射のメカニズムによって,母親と完全に一体となっている。この混同的条件反射は,情動時に周囲に単に共存したものをすべて融合してしまうのである。主客図式では決して把握できぬ事態である。〕(A)
    ってあるから、
    「自己知覚」→体位姿勢
    「内部知覚」→尿意、空腹など
    こんな感じなのかな?
    そして、自己知覚と内部知覚〔のみを中心として,親と情動的交流をする他ない生後数週間の新生児は,かの条件反射のメカニズムによって,母親と完全に一体となっている。〕って言ってる。

    尿意とか空腹っていうのはあるよね。でもそれに「知覚」っていう語を当てる?って思ってネットで調べたら、
    コトバンクのなかに、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    世界大百科事典内の内部知覚の言及
    【知覚】より
    …その意味では,知覚は,対象との直接的接触による直観知への要求を反映した概念ともいえる。事実,われわれ自身の内的状態や意識そのものの把握が,いわゆる五感によるものではないにもかかわらず,ときに〈内部知覚〉などと呼ばれるのは,知覚のそうした理解にもとづいているわけである。そして知覚がそのような対象の直接知と解されるならば,それが知識の最も基礎的な源泉と考えられるようになるのも当然である。…
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。
    簡単に見て、「内部知覚」=〈われわれ自身の内的状態や意識そのものの把握〉、ってひとまずしとく。

    体位や姿勢をとる知覚のことを「自己知覚」って言う?ネットで調べて見たんだけど
    自己覚知について | 関西福祉大学 (kusw.ac.jp)
    のなかでは、
    〔自己覚知とは、援助者であるワーカー自身が自分の感じ方、考え方の傾向、知識や技量について意識化し、自ら把握しておくことである。〕
    ってあった。「自己知覚」→体位姿勢、となんか違う。
    で、わたし〈体位姿勢をとる〉ということとのための覚っていうのはあると思うけど、この覚に「自己知覚」っていうのを当てないことにした。

    「自己意識」っていうのはあった。
    自己意識 - 脳科学辞典 (neuroinf.jp)
    には、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    自己意識とは、外界ではなく自分自身に向けられる意識のことであり、向けられる自己の側面によって2つに分けられる。ひとつは、他者が観察できる自己の外面(容姿や振る舞い方など)に向けられる公的自己意識(public self-consciousness)、もうひとつは他者から観察できない自己の内面(感覚,感情,思考など)に向けられる私的自己意識(private self-consciousness)である。これらの用語は、注意が自己に向けられた状態を表す公的自覚状態(self-awareness)、私的自覚状態(private self-awareness)と混同されやすく、区別されずに用いられる場合もある。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    ちょっとわたしの頭ん中を整理すると、
    @「知覚」を〈内部知覚〉と〈外部知覚〉に区別。
    A「意識」を〈私自身の内に志向する意識〉と〈私の外にあるものものへ志向する意識〉って区別。
    前者を「身体意識」と「自己意識」に区別して(これが〈内部知覚〉とかかわるのかな?)、後者を「他者意識」(これが〈外部知覚〉とかかわるのかな?)ってして見る。「他者」っていうのは「他人」と「他物」の両方をまとめてそう言うことにしてる。
    Bあと、〈私の意識の内での志向性〉っていうのもあるかな。
    まだ上手に整理できてないんだけど、ひとまず。

    もうひとつ、(A)のところの、
    〔母親と一体になっている〕
    〔情動時に周囲に単に共存したものをすべて融合してしまう〕
    〔主客図式では決して把握できぬ事態〕
    に関連して、
    〔私と他者との区別,能動的なものと受動的なものとの区別ができていない〕
    〔子どもの主・客未分状態〕
    〔実際,子どもの身体意識は,知覚を多数つみ重ねていけば獲得できるものではなく,他者との未分化状態から,正確にいえば,鏡像との未分化状態から脱出することではじめて手に入れられるものなのである。この脱出は,単なる認識論的な操作ではあり得ず,対人関係を・文化の秩序,イデオロギーの構造を媒介とした存在論的な脱出なのである。〕
    〔情動融合状態〕
    って言ってる。

    ここで話題となっている「子どものころ」、っていつごろ?っていうことになるんだけど、だいたい0歳〜1歳ぐらい?(ラカンの鏡像段階は生後6ヵ月〜1歳6ヵ月頃のことを言てるみたいだから)
    ひとまず、0歳のころは、〈主・客未分〉の状態、〈私と他者〉あるいは〈私と他人〉あるいは〈自己と他者〉の区別がない状態、って見てるんかな?
    ひとまず、
    〈0歳から1歳6ヵ月のころは自他未分化の状態〉
    ってしとく。

    ってすると、この頃を見ようとするとき、「私」っていうのが使えなくなっちゃうのね。どうしよっかな〜、って。自他未分の私をいろんな括弧で括る、っていう手もあるけど、ちょっと考えたんだけど「体自」っていう語を勝手に作って見た。〈主客図式では把握できない、自他未分化〉の(私)を「体自」って。ま、これは一般的に通用しないから別にいいんだけど、わたしにとってはこう名づけると整理しやすくなった気がしてるけどね。
    No30666にあるような、
    1歳5ヵ月頃の「ものの分類から命名へ」みたいなのかな?

    すべての人は、むかし、母親のおなかのなかの胎児だったことは確かだし、人のばあいいわゆる未熟児で生まれてくるんだし、やっぱ生まれてしばらくの間は「体自」の状態なんだと思う。
    「私」はむかしは「体自」だった、っていう見方をしたとき、大人になるとあたりまえのように私と他人の区別ができてるように思えるんだけど・・・・、ここが問題なのかな?

    いま捉えようとしているのは、「鏡像段階」っていう時期(生後6ヵ月から1歳6ヵ月ころ)をラカンはどのように見ているのか、ね。

    つづく

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