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■27553  Re[57]: 結びつけ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/17(Thu) 19:35:23)
    「語る」っていうこと、これって、「言語(言葉)」や「意味」にかかわってくるよね。
    あと、「現象学」、わたしのような素朴的経験的私が生きる生活世界のフィロソフィア、ってわたし見てるんね。
    こういうなかで、
    「What」のところで書き写したのをここでもういちど載せとく。

    フッサールの『デカルト的省察』から、
    No11345
    *********
    …日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるのにもかかわらず、匿名的に行なわれる。経験している者自身は、それについて何も知らない。そこで働いている思考についても、同様に何も知らない。例えば、数、述定的な事態、価値、目的、作品といったものは、この隠れた働きのおかげで、一つ一つ積み上げられて現れるが、経験している者には、これから現れてくるもののみが視野に入る。実証的な諸学においても、事情は変わらない。それらは高次の素朴性であり、賢明な理論的技術によって形成された作品であるが、ただ、それらすべてが究極的にはそこから湧き出ているはずの志向的な働きが、解明されないままなのだ。学問というものは確かに、その理論的な歩みを正当化できることを要求し、いつも批判的吟味に基づいているが、その批判は究極的な認識批判(3)なのではない。究極的な認識批判とは、根源的な働きについての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである。…
    訳注(3)
    〔ロックの『人間知性論』からカントの『純粋理性批判』に至る近代哲学の課題は「認識批判」であった。フッサールが現象学的還元の着想を得た頃の覚え書きにも「理性の批判」という語が見られる。〕
    *********

    『知覚の現象学』の「第一部身体」のなかの、「Y表現としての身体と言葉(パロール)」、のところ。
    No27469はこの中の一部を書き写したものだけど、このなかに書いてあるところをもう少し、

    〔思惟は表現である〕と題してあって、その一部を、
    **************
    P304言葉は正真正銘の身振りである。身振りがその意味を含んでいるように、言葉もまたその意味を含んでいる。そしてこのことがまさに意思伝達を可能ならしめるものなのである。私が他人の言葉を理解するためには、もちろん彼の語彙と統辞法とが私にとって「既知」でなければならない。しかしこのことは、他人の言葉の作用が私のうちにそれと連合する「諸表象」を引き起こし、こうした「諸表象」の集まりがついに語り手におけるものとの「表象」を私のうちに再生産するに至る、ということを意味するものではない。私が最初に交信するする相手は「表象」や思想ではなく、語る主体であり、ある一定のありよう(style d’&#233;tre)であり、彼がめざす「世界」である。他人の発言を促した意義志向が顕在的な思想ではなくて自己を充たさんとするある欠如であるのと同じように、この志向を私が受け継ぎ引き受けるということは、私の思惟の作業ではなくて、私自身の実存の同時的な転調であり、私の存在の変換なのである。

    P305われわれは言葉が制定されて(instituee)いる世界のなかに生きている。日常的なあらゆる言葉に対して、われわれ自身のうちに出来合いの意義が用意されている。これらの言葉はわれわれの心に二次的な思想しか呼びおこさない。この思想はこの思想でまた別の言葉に言い直される。そしてこの別の言葉とは、われわれから真の表現の努力といえるものを少しも要求せず、聞き手がそれを了解するためにも何ら努力を必要としないような言葉である。こういうわけで言語活動と言語理解とは、当たりまえのことのように思われる。言語的世界、相互主観的世界は、われわれにとってもはや驚くべきことではない。われわれはこの世界をもはや世界そのものから区別しない。そしてわれわれが反省するのも、すでに語られまた語りつつある世界の内部においてである。話すことを学ぶ幼児の場合にせよ、あることがらを初めて語り考える著述家の場合にせよ、要するにある沈黙を言葉に変えるすべてのひとびとの表現や意思伝達のなかに存する偶然なものにわれわれはもはや気づかなくなっている。しかし日常生活において使用される既成の言語は、明らかに表現の決定的な段階がすでに踏み越えられたこと前提にしている。われわれがこの起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。言語は身振りであり、その意義は一つの世界なのである。
    **************

    わたし、こういうのを手がかりにして、〈世界における(への)存在者(わたし)〉を見ようとしてる。
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