HOME HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

ログ内検索
・キーワードを複数指定する場合は 半角スペース で区切ってください。
・検索条件は、(AND)=[A かつ B] (OR)=[A または B] となっています。
・[返信]をクリックすると返信ページへ移動します。 (*過去ログは表示されません)
・過去ログから探す場合は検索範囲から過去ログを選択。

キーワード/ 検索条件 /
検索範囲/ 強調表示/ ON (自動リンクOFF)
結果表示件数/ 記事No検索/ ON
大文字と小文字を区別する

No.25408 の関連記事表示

<< 0 >>
■25408  日記
□投稿者/ pipit -(2022/08/07(Sun) 17:29:20)
    みなさま、こんにちは(^ ^)
    いったん流れを整理します。

    カントはまず、論理学者の【判断の定義】に納得できない、と述べます。
    pipitの想像では、当時の論理学者は一般的には「判断とは断言判断である(or 断言判断に還元できる)」と述べてたのではないかと。
    そして判断とは断言判断である、と定義されることにより様々な弊害が出てくるが、ここではそれに触れない、、、と言いつつも、、

    ================
    No25330より
    DeepL翻訳
    私は、論理学者が与える判断の定義に納得することができませんでした。
    彼らによれば、判断とは、2つの概念の間の関係を表すことである。
    この定義の欠陥についてはここでは触れないが、この定義は定言的判断にのみ適用され、仮説的判断(pipit注・中山先生訳では仮言判断)や分離的判断(中山先生訳では選言判断)には適用されないという点で、後者は概念の関係ではなく、判断そのものの関係を含んでおり、この誤りから多くの悪い結果が生じている[18]。
    我々の現在の目的にとってより重要なのは、この定義によって、当該関係が何からなるかが決定されていないことに注目することである。
    ==================

    触れない、と言いながらも、注釈[18]を述べて少しだけ触れています。
    それが、今、三段論法の四つの格などについて読んでるところですね。

    注釈[18]
    No25400
    でpipitが訳した前半部分は、
    『4つの三段論法の格についての、うんざりするほどの教説は、定言的三段論法にのみ関係するものである;
    これは、純粋な三段論法の前提に直接的推論(consequentiae immediatae)を密かに導入することによって、最初の格にある推論よりも多くの推論を導き出す様式があるように見せるための企みに他ならないが、』

    pipitが訳しあぐねた後半部分、ギブアップして、中山先生の訳を引用させていただきます。
    m(_ _)m※「技術」と中山先生の訳してる箇所はpipitは上部では「企み」と訳したものが対応したものです。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p132より引用
    『しかしこの技術も、断言命題の判断には、他のすべての判断がかかわらないような絶対的な権威があることを示せないとすれば、それほど大きな成功を示したことにはならないだろう。これが偽りであることは、第九項で示したとおりである。』

    =================

    そしてこの後、カントなりの【判断の定義】を述べていくようです。(pipitはまだ未読同然なので、論理学者の定義とどう違うかなどはわかりません)

    ==================

    それで、この流れの箇所に直接関わるのか、否かはわかりませんが、
    カントとしては、三段論法の形としては、カチっとしたものが頭にイメージされてるようで、そのことが、B361あたりに出てきます。
    中山先生訳本では第四巻p37-
    中山先生の解説は同四巻p273-

    ごく一部だけ中山先生の訳を引用します。
    『あらゆる理性推論においてわたしは第一に、知性を使って一つの規則(大前提)を考える。
    第二にわたしは判断力を使って、ある認識をこの規則の条件のもとに包摂する(小前提)。
    最後にわたしは、理性を使ってアプリオリに、わたしの認識をこの規則の述語によって規定する(結論)』第四巻p37

    で、ちょっとカント独特の捉え方に思えて(違うかもだけど)興味深く思ったのは次の箇所↓
    『第一に、理性推論は直観にかかわるものではないし、直観を規則のもとにもたらそうとするものでもない。
    この役割を果たすのは知性と、そのカテゴリーである。
    理性推論は、概念と判断だけにかかわる。だから純粋な理性が対象とかかわる場合にも、対象そのものや、対象の直観と直接に関係するのではなく、知性とその判断にだけかかわるのである。
    まず知性と判断が感覚能力とその直観に適用されて、その対象を規定する。
    だから理性による統一は、可能な経験を統一するものではない。
    可能な経験を統一するのは知性であり、これが理性による統一との本質的な違いである。
     たとえば「すべての生起するものにはその原因がある」という命題は、理性によって認識され、指定された原則ではない。この原則は、経験の統一を可能にするものであり、理性からは何も借りていないのである。
    理性はもともと可能な経験とはまったく関係しないのであるから、理性がたんなる概念によって、このような総合的な統一を命じることなど、できるはずもないのである。』
    第四巻p41.42

    ここだけを読むに、
    三段論法の大前提は、知性により得た規則を置き、
    小前提は判断力により判断した個別の事象を述べ、
    理性推論により、個別の事象を規則に包摂させ、個別の事象に規則の述語をくっつける。
    間接推論が理性であり、直接推論は知性の能力だとしてるのかな?

    それで、これは、超越論的弁証論への下準備なのかな?と思ったのは、
    たまたま次の文章が目に入ったからです。
    超越論的弁証論に進む箇所に、
    『(略)理性推論における大前提は、純粋な理性が示したものであって、この推論は経験からその条件へと遡ろうとするのであるが、そうだとすると[対象の条件の系列の完璧さを求めるのは、早まったことだとすると]理性推論のうちには、きわめて大きな誤解と欺瞞が忍び込んでいることになるだろう(そのときには大前提は一つの要請というよりも、嘆願に近いものとなってしまうだろう)。これらの問いに答えることが、この超越論的な弁証論の課題である。』
    中山元先生訳本第四巻p45.46

    しかしいろんなことがpipitには難しすぎる…
    (*_*)
    頭疲れました
    _(┐「ε:)_
記事No.25328 のレス /過去ログ3より / 関連記事表示
削除チェック/



<< 0 >>

パスワード/

HOME HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -