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■24959  Re[20]: 日記
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/18(Mon) 12:37:07)
    No24880に返信(pipitさんの記事)
    前後(悪魔ちゃんとの会話を含め)を読んで考えたことを書かせてください。

    > 『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    > (『道徳形而上学』から)
    >
    >  まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    > (御子柴善之)』

    (『他人に対して拘束』の意味が確かには分からず、勝手に解釈するので、以下は間違いかもしれません。)

    認識する主体である「私」が他人に拘束されるそれ(自分)と完全に一致してしまっていたら、全て他人に操られるままなので、自分が拘束されているという認識も持てない。他者から拘束を受けない「私」がまず存在し、対象としての[自分自身]を拘束できるときのみ、その[自分]が他者から(も)拘束されているという認識を持つことができる。
    ・・・かなぁ

    > 御子柴善之先生の回答から思い出すのはダンマパダの『自己』の章にある経文。
    >
    > ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』

    上の私の解釈(間違っているかもしれません)でも、『自己こそ自分の主(あるじ)である。』と結びつく気がします。



    https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1376
    『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート

    面白いですね

    > 「「私は考える」ということは、あらゆる私の表象に伴いえなければならない。」

    これは純粋理性批判を読んでみるトピでも何回か俎上にのりましたね。

    >  ヴォルフラート論文にも登場する『純粋理性批判』第2版超越論的演繹論のあまりにも有名な一節ですが、この一節の解釈をめぐり、200年以上にわたって有名無名問わず世界中の哲学者がのたうち回ってきた(私もその一人です)ことを思うと、なんだかゾクゾクします。
    > (辻麻衣子)

    そうなんや。世界中の哲学者がのたうち回ってきたんや〜 そ、それは たしかにゾクゾクする。
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