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■25714 / inTopicNo.1)  日記
  
□投稿者/ pipit -(2022/08/20(Sat) 17:45:40)
    2022/08/20(Sat) 17:47:59 編集(投稿者)

    五蘊の一つ目は、
    pipit的には物質って今のところ思ったよ。

    形あるもの、って、自分の観察としてみてみようと思った。

    次は五蘊の二番目、なあに?wiki先輩ー

    wikiより抜粋引用
    『受蘊(じゅうん、巴: 梵: vedana) - 感受作用。肉体的、生理的な感覚。根(六根)と境(六境)と識(六識)の接触和合から生じる苦・楽・不苦不楽などの印象、感覚。阿毘達磨倶舎論においては、内なる心が外界と接触してそこに楽、苦、不苦不楽を受け入れること』

    あ、そういえば英訳あるかなぁ、と、
    タイのおぼうさま(パーオーパユットー様)の本『仏法』見てみた、p29

    あー、、、『色』の箇所もおもしろいな。
    物質とそのエネルギーとその特性、と、エネルギーまで『色』に含めてる。
    『色』と『受』の一部分を引用します。パーリ語記号は引用できてません。
    『・漢訳仏教用語(パーリ語原語 = 英訳)』です。

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

    引用開始
    『・色(Rupa = Corporeality )
       色法すべての構成要素。身体と身体のすべての行為。
       あるいは物質とそのエネルギーとその特性、
       および物質、エネルギーの様々な動き。

     ・受(Vedana = Feeling or Sensation )
       五官と心の触から生じる楽、苦、不苦不楽を感受すること。』
    引用終了。『仏法』パーオーパユットー師、野中耕一さま訳、p29

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

    五官って、眼耳鼻舌身のことかな。
    なんか、今まで勉強してきた経典の中に、微妙な表現があった気がするけど、
    pipitには難しすぎて調べ直す気力が、、、
    _| ̄|○

    とにかくっ、五官関係と心の【触】から生じる、苦、楽、不苦不楽を感受することが、【受(じゅ)・ヴェーダナ】だね。何かを見たときとか、聞いた時とか、苦痛かんじたりすることもあるけど、そういうことあったら、受だなーと観察チャレンジしてみたいな。

    さあ、『仏教について3』へGO!
    (パニチェさん、ありがとうございます(*^◯^*)♪)
引用返信/返信 削除キー/
■25697 / inTopicNo.2)  蘊(うん)
□投稿者/ pipit -(2022/08/19(Fri) 00:12:27)
    2022/08/19(Fri) 06:09:22 編集(投稿者)

    みなさま、こんばんは!
    先輩尼様が、まず「蘊」のことを説かれた、と。

    約2500年後の後輩願望のpipitがウィキペディアで検索してみます!
    (叱られる?叱られない?)

    一部抜粋
    『蘊(梵: skandha[スカンダ]、巴: khandha [カンダ])とは集まり、同類のものの集積を意味する。』

    pipitのイメージでは、蘊って、固まりって感じなんだけど、
    ウィキペディアに載ってた英訳は、
    『aggregate, mass, heap』だった。

    人間ってなあに?に対する仏教の答え方の一つとして、
    五蘊(ごうん)、っていうのがあるのかな、と思ってます。

    同じくウィキペディアより
    『五蘊を自己(我)とみなす見解を有身見といい、仏教における悪見・結のひとつである。釈迦は「私」の観察によって、変化し続ける五蘊以外には発見できないこと、すなわち無我の発見に至っている。世間の人々は五蘊を自己とみなすために、限りない苦に囚われ続けるのである』

    では、五蘊とは?

    wikiより
    『五蘊は次の5種である。「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示す』

    で、まず、『色』
    『色蘊(しきうん) - いろ、形あるもの。認識の対象となる物質的存在の総称。一定の空間を占めて他の存在と相容れないが、絶えず変化し、やがて消滅するもの』

    >一定の空間を占めて他の存在と相容れないが<

    ここらへんの記述、哲学っぽいね!不可侵性とか、同じような意味になるのかな??
    (ウィキペディアの筆者さんが哲学を学んだことがあるのかもと想像してます。ウィキペディアからの記述は、その記事の筆者さんのバイアスが入っているのは不可避ということを頭に置いておこうと思います。※経典にない事柄かもしれない、ということです。それでも仏教先輩の記事(wiki記事のこと)ありがたいな♪)

    とりあえず、pipitにとって物質と捉えられるものが、『色』と捉えてみようかな!

    まだ五蘊の中の1個目を見ただけですが、
    今日はおやすみなさい☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■25681 / inTopicNo.3)  仕切り直し・「蘊、処、界、ってなあに?」
□投稿者/ pipit -(2022/08/17(Wed) 23:12:23)
    2022/08/18(Thu) 07:04:15 編集(投稿者)
    2022/08/17(Wed) 23:20:34 編集(投稿者)

    No25680
    の詩偈に出てくる『蘊、処、界』という仏教の教えについてウィキペディアなどで一度きちんと勉強したいなと思います。(特に界のことなどはあまり知らないので。)

    She taught me the Dhamma:
    the aggregates, sense fields, and elements.
    【彼女はわたしにダンマ(法)を教えてくださりました。
    集合体(薀)について、感覚の領域について、要素について。】

    ★英訳/日訳 → パーリ原語/漢訳の仏教用語 です。↓

    ★ aggregates 集合体→ khandhe 蘊、
    ★ sense fields 感覚の領域→ ayatanani 処、
    ★ elements 要素→ dhatuyo 界、

    がんばりまーす (*^▽^*)
引用返信/返信 削除キー/
■25680 / inTopicNo.4)   仕切り直し・ウッタマー長老尼さまの詩偈
□投稿者/ pipit -(2022/08/17(Wed) 23:10:29)
    英訳のpipit的日訳

    Uttama
    ウッタマー長老尼の詩偈

    Four or five times
    I left my dwelling.

    四度、五度と
    私は精舎から抜け出しました。

    I had failed to find peace of heart,
    or any control over my mind.

    心に平安を見つけることも、
    心をコントロールすることも出来ませんでした。

    I approached a nun
    in whom I had faith.

    私は信頼していた尼様を訪ねました。

    She taught me the Dhamma:
    the aggregates, sense fields, and elements.

    彼女はわたしにダンマ(法)を教えてくださりました。
    集合体(薀)について、感覚の領域について、要素について。

    When I had heard her teaching,
    in accordance with her instructions,
    I sat cross-legged for seven days without moving,
    given over to rapture and bliss.

    彼女の教えを聞き、指導に従い、
    七日間動くことなしに足を組み坐りました
    歓喜と至福に包まれて。

    On the eighth day I stretched out my feet,
    having shattered the mass of darkness.

    八日目に私は足を伸ばしました。
    暗黒の塊を打ち砕きました。
引用返信/返信 削除キー/
■25679 / inTopicNo.5)  仕切り直し
□投稿者/ pipit -(2022/08/17(Wed) 23:08:55)
引用返信/返信 削除キー/
■25678 / inTopicNo.6)  蜜丸経
□投稿者/ pipit -(2022/08/17(Wed) 22:41:30)
    No24063に返信(pipitさんの記事)
    > みなさま、こんばんは。
    >
    > 可能バージョン
    > No23966
    > と、
    > 不可能バージョン
    > No23979
    >
    > この2つの組み合わせを、公式的に、枠組み的に、事象にあてがったら、今の段階の自分でも実行できる箇所が見つけやすくなるのではないかと思っているんです。
    >
    > 例えば、眼はあるんだから、景色が現れるのをストップできないけど、景色について思考を拡げていくところはストップにチャレンジすることはできるかな、とか。
    >
    >
    > そういうことを、大まかに考えているところで、きちんと考えたいと思っていますが、、、今日はおやすみなさいー
    > (( _ _ ))..zzzZZ
    >

    みなさまこんばんは!
    pipitにとっての激ムズ経典「蜜丸経」
    まだ読解途中なのですが、わたしにはあまりに難しいので、もう少しチャレンジするか、一旦別の経典読解に変更するか思案中です
    (^◇^;)

    とりあえず関連投稿を浮上させます。

引用返信/返信 削除キー/
■25192 / inTopicNo.7)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/26(Tue) 17:16:09)
    おくたがわさん、こんにちは!
    No25188
    そうおっしゃってくださり嬉しいです
    (*^▽^*)

    ただわたしは、すご-----く偏って勉強してるので、申し訳ないです
    (^^;)

    またよかったら、どんな話題でも、おくたがわさんのペースで、書き込みくださいね!

引用返信/返信 削除キー/
■25188 / inTopicNo.8)  Re[22]: pipitさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/26(Tue) 08:47:35)
    仏教について興味がありながら、どこから手を付けていいか分からない状態だったので、pipitさんが仏教関係のトピを立てられたことがありがたいです。
    先日こちらのトピを発見後 1から通して読ませていただきました。
    ご挨拶が後になりすみません。
    とても丁寧な案内で進められていてありがたいです。
    他の哲学と関連づけて考えが書かれているのも、スパイス(?)になって読み進めやすかったです。

    ネットなどで仏教関係の文章を見るとき、自分の一つ覚え的なこと(あるがまま、とか)に結びつけて解釈する傾向がいままであったのですが、
    今回は、先入観なしで、何が言われて(示されて)いるのか見ていけたらと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■25000 / inTopicNo.9)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/19(Tue) 22:34:52)
    おくたがわさん、ありがとうございます(^_^)

    No24959
    > 前後(悪魔ちゃんとの会話を含め)を読んで考えたことを書かせてください。<

    私、単純に、何であっても結局は自分の意志で決めてることなんだ、って意味内容に捉えてたんですけど、
    悪魔ちゃんやおくたがわさんの書き込み読んで、
    もっと複雑なこと言ってたのかも、って思いました(・・;)


    >>『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >>
    >>「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    >>(『道徳形而上学』から)
    >>
    >> まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    >>(御子柴善之)』
    >
    > (『他人に対して拘束』の意味が確かには分からず、勝手に解釈するので、以下は間違いかもしれません。)<

    確かに、きちんと考えてみれば、ちょっとわからなくなる文章表現ですね。


    > 認識する主体である「私」が他人に拘束されるそれ(自分)と完全に一致してしまっていたら、全て他人に操られるままなので、自分が拘束されているという認識も持てない。他者から拘束を受けない「私」がまず存在し、対象としての[自分自身]を拘束できるときのみ、その[自分]が他者から(も)拘束されているという認識を持つことができる。
    > ・・・かなぁ<

    おぉ、わたしにはなかった丁寧な考え方。。。
    pipitは最初から先入観もって読んじゃってたなぁ。

    確かに、物自体(叡智界)の私と現象(自然界?)の私とか区別してるかもだなー。



    >>御子柴善之先生の回答から思い出すのはダンマパダの『自己』の章にある経文。
    >>
    >>ダンマパダ160(中村元先生訳)
    >>『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    >>自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    >>岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』
    >
    > 上の私の解釈(間違っているかもしれません)でも、『自己こそ自分の主(あるじ)である。』と結びつく気がします。<

    > https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1376
    > 『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート
    >
    > 面白いですね
    >
    >>「「私は考える」ということは、あらゆる私の表象に伴いえなければならない。」
    >
    > これは純粋理性批判を読んでみるトピでも何回か俎上にのりましたね。
    >
    >> ヴォルフラート論文にも登場する『純粋理性批判』第2版超越論的演繹論のあまりにも有名な一節ですが、この一節の解釈をめぐり、200年以上にわたって有名無名問わず世界中の哲学者がのたうち回ってきた(私もその一人です)ことを思うと、なんだかゾクゾクします。
    >>(辻麻衣子)
    >
    > そうなんや。世界中の哲学者がのたうち回ってきたんや〜 そ、それは たしかにゾクゾクする。<

    はい (−_−;)

    残念ながら、、、(((o(*゚▽゚*)o)))ヲソロシヤー
引用返信/返信 削除キー/
■24959 / inTopicNo.10)  Re[20]: 日記
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/18(Mon) 12:37:07)
    No24880に返信(pipitさんの記事)
    前後(悪魔ちゃんとの会話を含め)を読んで考えたことを書かせてください。

    > 『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    > (『道徳形而上学』から)
    >
    >  まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    > (御子柴善之)』

    (『他人に対して拘束』の意味が確かには分からず、勝手に解釈するので、以下は間違いかもしれません。)

    認識する主体である「私」が他人に拘束されるそれ(自分)と完全に一致してしまっていたら、全て他人に操られるままなので、自分が拘束されているという認識も持てない。他者から拘束を受けない「私」がまず存在し、対象としての[自分自身]を拘束できるときのみ、その[自分]が他者から(も)拘束されているという認識を持つことができる。
    ・・・かなぁ

    > 御子柴善之先生の回答から思い出すのはダンマパダの『自己』の章にある経文。
    >
    > ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』

    上の私の解釈(間違っているかもしれません)でも、『自己こそ自分の主(あるじ)である。』と結びつく気がします。



    https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1376
    『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート

    面白いですね

    > 「「私は考える」ということは、あらゆる私の表象に伴いえなければならない。」

    これは純粋理性批判を読んでみるトピでも何回か俎上にのりましたね。

    >  ヴォルフラート論文にも登場する『純粋理性批判』第2版超越論的演繹論のあまりにも有名な一節ですが、この一節の解釈をめぐり、200年以上にわたって有名無名問わず世界中の哲学者がのたうち回ってきた(私もその一人です)ことを思うと、なんだかゾクゾクします。
    > (辻麻衣子)

    そうなんや。世界中の哲学者がのたうち回ってきたんや〜 そ、それは たしかにゾクゾクする。
引用返信/返信 削除キー/
■24956 / inTopicNo.11)  Re[25]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/18(Mon) 11:24:08)
    ■24927 、
    >「自分」「私」「自分自身」は、御子柴先生の言?<
    そうで〜す。
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」<
    >この文脈で言うと、「自分」は「私」のことで、「私」は認識している主体で、「自分自身」も「私」のことなんじゃない??<

    〈私が他人に対して拘束されていると認識している主体が認識できるのは、私が同時に私を拘束している限りにおいてだけである。〉
    ってうことかな。
    これならなんとなく分かる気がする。
    ありがとございま〜す。


引用返信/返信 削除キー/
■24927 / inTopicNo.12)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/17(Sun) 23:12:14)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^○^)

    No24917
    > No24880のなかに、
    >
    > 「自分」「私」「自分自身」「自己」ってあるけど、
    > これら、それぞれ、どういうの?<

    「自分」「私」「自分自身」は、御子柴先生の言?

    > 『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート/御子柴善之先生の回答より
    >
    > 『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    > (『道徳形而上学』から)
    >
    >  まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    > (御子柴善之)』<

    この文脈で言うと、
    「自分」は「私」のことで、
    「私」は認識している主体で、
    「自分自身」も「私」のことなんじゃない??

    認識主体にとっての行為の主語を「私」と表現したり、認識主体にとって認識主体を認識対象とするとき「自分」とか「自分自身」って表現してるのかな?と思ったよ。

    「自己」はダンマパダだね。

    > ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』<

    「自分」もあるね。

    パーリ原文は、

    Atta hi attano natho,
    ko hi natho paro siya;
    Attana hi sudantena,
    natham labhati dullabham.

    訳語「自己」原語「Atta」
    訳語「自分の」原語「attano」

    どっちも中心は「atta」で、原語はあんまり区別されてないのかな?

    英訳(Bhikkhu Sujato様)を見てみたよ

    Self is indeed the lord of self,
    for who else would be one’s lord?
    When one’s self is well-tamed,
    one gains a lord that’s rare indeed.

    自己も自分も「Self」「self」だね。

    pipit私見
    >認識主体にとって認識主体を認識対象とするとき「自分」とか「自分自身」って表現してるのかな?と思ったよ。<

    んー、この場合、pipit私見は当てはまるかなあ、当てはまらないかなぁ。

    当てはまるかな?
    悪魔ちゃんどう思うかな?

引用返信/返信 削除キー/

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