| 2019/09/23(Mon) 09:39:53 編集(投稿者)
おはようございます、ピピットさん。
■No1875に返信(pipitさんの記事)
> パニチェさんが考えてることを教えてくださって > ありがとうございます
いえいえ、どういたしまして。 私の方こそ、いつもレスいただきありがとうございます。
> 改めて今考えてみると、 > どう生きるか、しか、直接的には行為できないですよね。
全くもってその通りです。「如何に死ぬか」は「如何に生きるか」と同義ですし、(魂のようなものが存在せず、自分の死を客観的に眺めることができないとするなら)自分では自分の死を体験できないことから、「如何に生きたか」や「如何に死んだか」の過去形評価は他人が下すものだと思います。集約すれば自己においては「如何に生きるか」しかないんでしょう。
> ふと思い出してダンマパダを取り出しました。
対比のため同じ箇所を中村元先生訳として引用してみました。
『此の身は瓶の如しと觀 、此の心を城の如く安住せしめ 、慧の武器を以て魔と戰ひ 、彼の捕虜を守り懈廢すること勿れ 。 嗟 、此の身久しからずして地上に横たはらん 、神識逝けば棄てられ 、猶ほ無用の材の如けん 。 怨が怨に對して爲し 、敵が敵に對して爲す處は如何なりとも 、邪に向ふ心の造る害惡に若くものなし 。 母 、父 、また其他の親戚の爲す所は如何なりとも 、正に向ふ心の造れる幸福に若くものなし 』
『40.この身体は水瓶のように脆(もろ)いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。克(か)ち得たものを守れ。──しかしそれに執着することなく。 41ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木切(きぎれ)のように、投げ棄てられて。 42.憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪(よこしま)なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。 43.母や父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを正しく向けられた心がしてくれる。』
> 何はともあれ、 > せっかく生きてるから、生きてるうちに、私の場合はちょっとでも煩悩捨てることを上手になりたいな。 > (煩悩にまみれてますけど。ほど遠いですけど。)
執着するものが1,080あったとして、1,000から0(死)になるよりも、500から0になる方がきっと楽です。 一つでも消せれば儲けもんくらいの気持ちで私はいきます。^^
> ありがとうございます(o^^o)
こちらこそ。^^
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