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■6041 / inTopicNo.1)  ニーチェの毒気
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/03(Thu) 20:24:02)
    特定のアフォリズムだけでニーチェを解釈しようとすれば

    たまたま目にしたアフォリズムによってはさらに毒気が増すこともある。
引用返信/返信 削除キー/
■6040 / inTopicNo.2)  Re[68]: 「神の死」の意味 2
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/03(Thu) 20:21:44)
    または

    Panietzsche Room

    ニーチェU

    第九章 神の死

    をどうぞ。

引用返信/返信 削除キー/
■6039 / inTopicNo.3)  「神の死」の意味
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/03(Thu) 20:18:59)
    興味がある方は。。。

    上部アイコン 

    NIETZSCH をクリック


    NIETZSCH WONDERLAND

    哲学テーマ

    神の死

    をどうぞ。


引用返信/返信 削除キー/
■6038 / inTopicNo.4)  Re[66]: 神の死と悦ばしき知識
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/03(Thu) 20:11:03)
    No6034に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■6014 、
    > >おれたちはみな神の殺害者であり、神は死んだ<
    > ニーチェ自身も>おれたち<に含めているのかしら?

    そうだと思います。
    ちなみにツァラトゥストラでは。。。。

    『かつて悪魔がわたしに向かって次のように語った。「神もその地獄を持っている。それは人間たちに対する神の愛だ。」また最近、わたしは悪魔がこういう言葉を口にするのを聞いた。「神は死んだ。人間たちに同情したために、神は死んだ。(ツァラトゥストラ 同情深い者たちについて)』

    人間のような人格や感情をもった神(人格神)は、人が死ぬように神も死ぬ存在であるというような意味も含むと思います。

    『あまりにも東洋的。──何ですって?人間が彼を信仰するならば、人間を愛してくれる神だって!この愛を信じない者には怖るべき眼光と威嚇を投げつける神だって!何ですって?全能の神の感情としての但し書きつきの愛だって!名誉心や復讐欲をどうしても制しきれない愛だって!なにもかもが何と東洋的であることだ!「私が君を愛したとて、それが君に何のかかわりがあろう?」──こういうだけでもすでにキリスト教全体に対する十分の批判である。(悦ばしき知識 第141番)』
引用返信/返信 削除キー/
■6034 / inTopicNo.5)  Re[65]: 神の死と悦ばしき知識
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/03(Thu) 18:42:32)
    ■6014 、
    >おれたちはみな神の殺害者であり、神は死んだ<
    ニーチェ自身も>おれたち<に含めているのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■6029 / inTopicNo.6)  Re[64]: 神の死と悦ばしき知識
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/03(Thu) 08:59:31)
    理解しましたよ

    パニチェ殿、ありがとうございます。

    内心は、それでいいのかね?と思ってしましましたが、

    理性の二律背反に従い、自由になります。
引用返信/返信 削除キー/
■6027 / inTopicNo.7)  Re[63]: 神の死と悦ばしき知識
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/03(Thu) 07:44:28)
    No6014に返信(パニチェさんの記事)
    > 2020/09/02(Wed) 20:54:46 編集(投稿者)
    >
    > ここはニーチェクラブなので一応投稿しておきます。
    >
    > ニーチェの文に何かしらの呪いを感じるとすれば、ニーチェ的には読者が何らかの呪いを抱えており、それをニーチェの文に投影しているということになるでしょうね。
    >
    > 以下の「善悪の彼岸 箴言と間奏第146番」は上記も示唆したアフォリズムです。
    >
    > 『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。』
    >
    >
    > ニーチェが初めて触れた「神の死」は以下です。
    >
    > 狂気の人間──諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、──白昼に堤燈をつけながら、市場へ駆けてきて、ひっきりなしに「おれは神を探している!おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。──市場には折りしも、神を信じないひとびとが大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種となった。「神さまが行方知れずになったというのか?」とある者は言った。「神さまが子供ように迷子になったか?」と他の者は言った。・・・──彼らはがやがやわめき立て嘲笑した。狂気の人間は彼らの中にとびこみ、孔のあくほどひとりびとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、「おれがお前たちに言ってやる!おれたちはみな神の殺害者なのだ!・・・たえず夜が、ますます深い夜がやってくるのではないか?白昼に堤燈をつけなければならないのではないか?・・・殺害者であるおれたちはどうやって自分を慰めたらいいのだ?世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、・・・どんな贖罪の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるだろうか?・・・それをやるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった──そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」──ここで狂気の人間は口をつぐみ、あらためて聴衆を見やった。聴衆も押し黙り、訝しげに彼を眺めた。ついに彼は手にした堤燈を地面に投げつけたので、堤燈はばらばらに砕け、灯が消えた。「おれは早く来すぎた」、と彼は言った・・・(ニーチェ著「悦ばしき知識 第125番」より)』
    >
    >
    > おれたちはみな神の殺害者であり、神は死んだ、しかしそこに呪いなどありません。
    >
    > 神を殺害することによって「おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった─そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込む」ことになる。
    >
    > 「神の死」は『悦ばしき知識』として語られているからです。


    はい、ありがとうございます、パニチェ殿。(感謝の意)
    どうしてもニーチェの文だけが受け入難い(です)ね。
    皆さんはこの文を理解できますかね?

    この文章をそのまま信じているんかね?
引用返信/返信 削除キー/
■6014 / inTopicNo.8)  神の死と悦ばしき知識
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/02(Wed) 20:47:19)
    2020/09/02(Wed) 20:54:46 編集(投稿者)

    ここはニーチェクラブなので一応投稿しておきます。

    ニーチェの文に何かしらの呪いを感じるとすれば、ニーチェ的には読者が何らかの呪いを抱えており、それをニーチェの文に投影しているということになるでしょうね。

    以下の「善悪の彼岸 箴言と間奏第146番」は上記も示唆したアフォリズムです。

    『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。』


    ニーチェが初めて触れた「神の死」は以下です。

    狂気の人間──諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、──白昼に堤燈をつけながら、市場へ駆けてきて、ひっきりなしに「おれは神を探している!おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。──市場には折りしも、神を信じないひとびとが大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種となった。「神さまが行方知れずになったというのか?」とある者は言った。「神さまが子供ように迷子になったか?」と他の者は言った。・・・──彼らはがやがやわめき立て嘲笑した。狂気の人間は彼らの中にとびこみ、孔のあくほどひとりびとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、「おれがお前たちに言ってやる!おれたちはみな神の殺害者なのだ!・・・たえず夜が、ますます深い夜がやってくるのではないか?白昼に堤燈をつけなければならないのではないか?・・・殺害者であるおれたちはどうやって自分を慰めたらいいのだ?世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、・・・どんな贖罪の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるだろうか?・・・それをやるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった──そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」──ここで狂気の人間は口をつぐみ、あらためて聴衆を見やった。聴衆も押し黙り、訝しげに彼を眺めた。ついに彼は手にした堤燈を地面に投げつけたので、堤燈はばらばらに砕け、灯が消えた。「おれは早く来すぎた」、と彼は言った・・・(ニーチェ著「悦ばしき知識 第125番」より)』


    おれたちはみな神の殺害者であり、神は死んだ、しかしそこに呪いなどありません。

    神を殺害することによって「おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった─そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込む」ことになる。

    「神の死」は『悦ばしき知識』として語られているからです。

引用返信/返信 削除キー/
■4867 / inTopicNo.9)  Re[62]: ニーチェと仏教
□投稿者/ パニチェ -(2020/08/02(Sun) 18:17:57)
    2020/08/02(Sun) 18:56:48 編集(投稿者)

    こんばんは、ピピットさん。

    No4866に返信(pipitさんの記事)
    > パニチェさん、こんばんは

    > パニチェルームの『ヨーロッパの龍樹』のページを
    > 読ませていただきました。
    > 興味深かったです。

    ありがとうございます。

    > パニチェさんが引用してくださった箇所は理解できていませんが、
    > (永劫回帰のことかな?)
    > 力への意志、と、相依性縁起の共通点はなんとなく
    > 前よりはイメージできてきました。

    そうです、引用は永劫回帰のある側面についてのアフォリズムです。
    少し補足しますと、「力への意志」とは広義では作用、反作用みたいな鬩ぎ合いの関係です。
    このような鬩ぎ合いによって現象や事物を含めた全体運動が円環の如く繰り返される。

    その生物学的側面が代謝や捕食(栄養、消化、エネルギー変換)で、認識論的側面が解釈による価値創出、存在論的側面が「生成に有という性格を刻印づけること──このことが力への最高の意志である。(力への意志 第617番)」ってことになります。

    但し、ニーチェは「力への意志」の出版を取り止めています。理由は明らかになっておりませんが、私の想像では、形而上学的なものを批判し否定したにも関わらず、「力への意志」が世界を説明する新たな形而上学的原理となってしまうことに気付いたためだと解釈しています。

    > 結局は、仮象であり、
    > それをネガティヴにとるのではなく、
    > 相依性縁起による仮象だからこそ、力への意志の発現として、唯一の実存として、
    > 私たちの手に依れる、由れる、拠る、ことのできる確かなものなんだ、
    > 自由であり、自らが根拠、のようなイメージを受けました。

    そうですね。神の死によって(神がいないなら)、生に普遍的な意味や価値、目的などなくなります。
    ニヒリズムとはニーチェによれば「至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。(力への意志 第2番)」こととなります。
    これに絶望するのが受動的ニヒリズムで、ペシムズム(厭世主義・悲観主義)に埋没します。
    むしろ生は純白のキャンパスとなり、そこに生の主人公である自らが意味や価値、目的を創出することができると解釈するのが能動的ニヒリスムとなります。

    よろしければ。。。この辺をコンパクトにまとめたのは。。
    「Panietzsche Room > ニーチェU > 第十章 > 1.来たるべき超人」です。^^
    (スルーでもいいですよ。)

    > 私の理解は外れてるかもですが(またいろいろ教えてくださいね(^O^))
    > パニチェさんとご縁があって、
    > 哲学者『ニーチェ』の印象が、前とは全然変わってきてると思います。
    > 少なくともニーチェと仏教を結びつけて考えることは、知識も少ない私にはありませんでした。
    > ありがとうございます(o^^o)

    私でよければ何なりと。^^
    こちらこそ、返信ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■4866 / inTopicNo.10)  Re[61]: ニーチェと仏教
□投稿者/ pipit -(2020/08/02(Sun) 17:22:08)
    パニチェさん、こんばんは

    パニチェルームの『ヨーロッパの龍樹』のページを
    読ませていただきました。
    興味深かったです。

    パニチェさんが引用してくださった箇所は理解できていませんが、
    (永劫回帰のことかな?)
    力への意志、と、相依性縁起の共通点はなんとなく
    前よりはイメージできてきました。

    結局は、仮象であり、
    それをネガティヴにとるのではなく、
    相依性縁起による仮象だからこそ、力への意志の発現として、唯一の実存として、
    私たちの手に依れる、由れる、拠る、ことのできる確かなものなんだ、
    自由であり、自らが根拠、のようなイメージを受けました。

    私の理解は外れてるかもですが(またいろいろ教えてくださいね(^O^))
    パニチェさんとご縁があって、
    哲学者『ニーチェ』の印象が、前とは全然変わってきてると思います。
    少なくともニーチェと仏教を結びつけて考えることは、知識も少ない私にはありませんでした。
    ありがとうございます(o^^o)

引用返信/返信 削除キー/
■4864 / inTopicNo.11)  Re[61]: 相依性縁起
□投稿者/ パニチェ -(2020/08/02(Sun) 16:19:31)
    No4862に返信(pipitさんの記事)
    > wikiの『中観派』の項目から抜粋引用します。

    > 『この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。』

    > 上記は、相依性縁起の説明文として読むことが可能なものでしょうか?

    はい、私もカキコしましたが、上記でいいと思います。^^
引用返信/返信 削除キー/
■4863 / inTopicNo.12)  Re[60]: ニーチェと仏教
□投稿者/ パニチェ -(2020/08/02(Sun) 16:17:40)
    2020/08/02(Sun) 16:32:56 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No4860に返信(pipitさんの記事)
    > パニチェさん、こんにちは

    > ニーチェの『力への意志』と、相依性縁起の共通点ってなにでしょうか?
    > 私は、相依性縁起じたいも、ボヤッとした自分勝手な概念でしか知らないのですが、
    > お互いに影響を与え合い、受け合い、みたいなかんじかな?と
    > 思ってるのですが、

    そうですね。全ては相関関係上に(二つ以上のものが相依って)生滅を繰り返す。
    よって個々の単体には実体がない(無自性=空)ってことだと思います。

    > もしよろしければ、ニーチェとの共通点などを、説明していただいてもよろしいでしょうか??

    興味をもっていただき光栄です。
    これまたPanietzsche Roomの宣伝みたいになってしましますが(笑)

    「Panietzsche Room > ニーチェU > 第十三章 ヨーロッパの龍樹 > 5.力への意志と縁起」にまとめてあります。
    質問、異論、反論があれば何なりと返信下さい。
    以下を引用しておきます。

    『世界を、一定の力として、また一定数の力の中心として考えることが許されるとすれば──そしてあらゆるその他の考えはあくまで疑わしく、したがって役立ちえないとすれば──、このことから結論されるのは、世界は、その大々的なさいころ遊びをつづけながらも、算定しうる一定数の結合関係を通過しなければならないということである。無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかは達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結語関係とその直後の回帰との間には総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したにちがいなく、これらの結合関係のいずれもが同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで、絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れをたわむれる円環運動としての世界にほかならない。──こうした構想はただちに一つの機械論的構想ではない。なぜなら、もしそうであるとすれば、この構想が条件づけるのは、まったく同一の場合の無限の回帰ではなく、一つの終局状態となるからである。世界はそうした終局状態に達したことはかつてなかったという理由から、私たちは機械論を、不完全な、たんに暫定的にすぎない仮設とみなさざるをえないのである。(力への意志 第1066番)』


    > ■No3781に返信(パニチェさんの記事)
    >>ニーチェと仏教についての共通点を「これに気付いたのはわしが初めてか?」とばかりに自慢げにYahoo!掲示板にカキコしてたことがある。
    >>
    >>ところがどっこい、とっくの昔から研究されてるし新田章著「ヨーロッパの仏陀─ニーチェの問い─」という本まであることを後に知った(笑)。
    >>
    >>但し!「力への意志」と「相依性縁起」の共通点に注目した学者は未だにお目にかかったことがない。。。が、いるかもしれんw<
引用返信/返信 削除キー/

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