□投稿者/ うましか -(2021/10/24(Sun) 09:39:53)
| 2021/10/24(Sun) 16:00:46 編集(投稿者)
pipitさん、皆さん、おはようございますー
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◆ 1 空間は、外的な諸経験〔aeusseren Erfarungen〕から抽象されたいかなる経験的な概念〔empirischer Begriff〕でもない。なぜなら、或る種の諸感覚が私の外なる或るものと(言いかえれば、私が現にしめている場所とは別の空間の場所をしめている或るものと)連関づけられるためには、また同じく、私がそれらの諸感覚を、たがいに分離しかつ並存しているものとして、したがって異なっているのではなく、異なった場所にあるものとして表象しうるためには、空間の表象がすでにその根底になければならないからである。したがって空間の表象は外的な現象〔aeussern Erscheinung〕の諸関係から経験をつうじて借りてこられたものではなく、この外的経験がそれ自身前記の空間という表象によってのみはじめて可能である。
--- No.17841 からの続き ---
◇ 2 空間は、全ての外的な直観の根底にある一つのア・プリオリで必然的な表象である。
※1 外的と内的、その区別の導入。何を境界とする、内・外か? ※2 外的な経験と内的な経験。「人間の認識構造」(黒崎〔『純理』入門〕, p.75)における位置づけ
◇人はたとえ空間のうちにいかなる対象も見いだされないということを十分考え得るにしても、いかなる空間も存在しないということについては決して表象することはできない。
◇それゆえ空間は諸現象の可能性の条件とみなされるものであり、諸現象に依存する一つの規定とみなされるものではなく、だから外的な諸現象の根底に必然的にある一つのア・プリオリな表象である。
※3 空間とは、諸現象の可能性の条件である。
† 原佑訳上巻、p.150〜p.151参照 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841 U−1 No.16741、U−2 No.16783 T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588,17841
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