□投稿者/ うましか -(2021/10/21(Thu) 19:15:30)
| pipitさん、こんばんはー
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◆外的感官(私たちの心の一つの固有性を介して私たちは、諸対象〔Gegenstaende〕を私たちの外なるものとして表象し、だからこれらの諸対象をことこどく空間において表象する。この空間において、それらの形態、大きさ、相互関係が規定されているか、あるいは規定されうる。内的感官は、心がそれを介して自分自身を、或いは自分の内的状態を直観するもので、なるほど一つの客観〔Objekt〕としての魂自身についていかなる直観も与えはしないが、しかしながらやはり、魂の内的状態の直観がそのもとでのみ可能である一定の形式であり、それゆえ内的な諸規定に属するすべてのものは時間の諸関係において表象される。外的には時間が直観されえないのは、空間が私たちの内なる或るものとして直観されえないのと同様である。ところで空間と時間とはなんであろうか?それらは現実に存在するものであろうか?それらは、なるほど諸物〔Dinge〕の規定あるいはまた関係に過ぎないものではあるが、しかしやはり、たとえ諸物自体は直観されるわけがないにせよ、諸物自体にも帰属すべきはずのものであろうか、それとも、それらは単に直観の形式にのみ付着するものであって、したがって空間と時間というこれらの述語がそれなくしてはいかなる物にも付加されえないところの私たちの心の主観的性質にのみ付着するものであろうか?この点を明らかにするために、私たちはまず空間の概念を論究しようと思う。しかし私は、論究〔Eroerterung〕(expositio)≠ニいうことを或る概念に属する判明な(たとえ詳細ではないにせよ)表象と理解する。だが論究は、それがその概念をア・プリオリに与えられたものとして¥柾qするものを含んでいるときには、形而上学的≠ナある。
--- No17515,17588 からの続き ---
◇ 1 空間は、外的な諸経験〔aeusseren Erfarungen〕から抽象されたいかなる経験的概念〔empirischer Begriff〕でもない。
◇なぜなら、或る種の諸感覚が私の外なる或るものと(言いかえれば、私が現にしめている場所とは別の空間の場所をしめている或るものと)連関づけられるためには、 また同じく、私がそれらの諸感覚を、たがいに分離しかつ並存し〔*1〕ているものとして、したがって異なっているのではなく、異なった場所にあるものとして表象しうるためには、 空間の表象がすでにその根底になければならないからである。
*1 第一版では「たがいに分離し」とある。
◇したがって空間の表象は外的現象〔aeussern Erscheinung〕の諸関係から経験をつうじて借りてこられたものではなく、この外的経験がそれ自身前記の空間という表象によってのみはじめて可能である。
† 原佑訳上巻、p.149〜p.150参照 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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V−1 No.17515、V−2 No.17588 U−1 No.16741、U−2 No.16783 T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588
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