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Re[67]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/14(Sat) 18:36:06)
| なんかそこはかとなくなお喋りなんだけど、 No45507のつづき的に、
現象学における「反省的方法」っていう「反省」っていうのがでてきたので、 No45451(Me-L1)に『反省に先立って』ってあって、ちょっと想い出したの。
どこに書いたか探しだけなかったから再掲になると思うけど、 『知覚の現象学』のなかに、 (Me-i1)—―――――――――― 私はあるとき反省しはじめたのであり、私の反省は、反省されていないものへの反省である。 (MP-p6) (Me-i2)―――――――― フッサールの末刊の手稿なかで、哲学者は永遠の初心者であるともいわれている。すなわち、哲学者は世人や科学者たちが知っていると信ずるものを、何によらず、既知のこととは見なさない。哲学がかつて真理をいいえたにせよ、かかる真理おいても、哲学は自己の知識を既知のものと考えるべきではない。哲学とは哲学自身の出発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。先のフッサールの言葉は、以上のようなことを意味しているのだ。一般に考えられたように、現象学的還元は、観念論的哲学の定式であるどころか、実存哲学の定式なのである。――ハイデガーの「世界―内−存在」(In-der-Welt-Sein)は、現象学的還元を基礎として、初めて出現しえたのである。(MP-p12) ―――――――――――――― ってメルポンは言ってる。 この『非反省的な生』っていうのが「日常的人間の自然的態度」のことなんだと思う。 で、 No45493の現象学の「ラディカリズム(徹底主義)」、ようするに「反省を徹底する」と、 「日常的人間の自然的態度の一般的定立」が「反省の出発点であり…終局状況でもある」 で、 No45451(Me-L1)「現象学とは…世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。」(b) っていうふうに、メルポンのはこうなってるのかも。
(Me-i2)の「永遠初心者」、これも前に書いた記憶あるけど、メルポン本のなかに「つねに最初からやり直す」とも言ってる。
もうちょっと想い出してるのが、 No44062の〔私たちは、経験にはさまざまな経験があり、各人が各様の経験をもっていると思いがちです。〕(d) っていうの。 わたしも日常的人間だから(d)のように思うのね。 でもカントの場合、そうは思わないっていうことみたいなんだけど、でもそれって批判する前からかしら?
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