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Re[10]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/28(Sun) 16:18:58)
| ■45044 の前に、 No45035につづけて No44414の資料のなかから少し書き出しておく。
資料(9)から
(9)-@――――――――――――――――― 2. 純粋自我について
「純粋自我」に関する拙著のテーゼは以下の通りである。純粋自我は、『イデーンT』の鉛筆書き草稿および『イデーンT』本文において、〈どの顕在的コギトからも反省によって取り出されうる同一の自我、コギトの自我〉として認められ(拙著 227〜228 頁)、『イデーンU』原草稿において、「時間的に存在するもの」として捉えられた。そのことによって、その後の発生的現象学の思想展開が促された(拙著 232〜236、240〜241 頁)。純粋自我は、〈コギタチオの流れである体験流を統一し、体験流のあらゆるコギタチオの内を生きている、それゆえ去来するコギタチオとは別の仕方で時間的に存在する同一の自我〉であり、体験流の全体とともに内的時間意識において構成されるもの(拙著注 101 頁)、反省によって見出されるものとして、位置づけられる。 ―――――――――――――――――(p1-2)
(9)-A――――――――――――――――― 3. 自我概念の展開
これに対して、中期時間論において、自我の概念は、〈それ自身は時間的ではなく、したがって内的時間意識において構成されるのではなく、自ら時間を構成し、機能する自我〉という概念にまで深められ(拙著注 101 頁)、これが後期時間論において「究極的に機能する自我」としての「原自我」の概念へと展開することになる。中期時間論において、自我が「機能する自我」として捉えられることになった決定的テクストの一部を、以下に引用する(拙著では注 101〜102 頁で引用)。
「しかしここで論究しておかなければならないのは、すべての諸体験に対する、そしてその諸体験の志向性そのもののうちに存在者として(オンティッシュ)含まれているすべてのもの(例えば思い見なされている(フ ェ ア マ イ ン ト)がままの思い見なされた自然)に対する自我は、すべての時間系列に対する極であり、そのようなものとして必然的に『超』‐時間的であるということ、つまりそれに対して時間が構成される…がそれ自身は時間的でないような自我であるということである。したがって、この意味ではこの自我は『存在者』ではなく、あらゆる存在者に対してその対を成すもの(Gegenstück für alles Seiende)であり、対象ではなく、あらゆる対象性に対する原象(Urstand für alle Gegenständlichkei)である。この自我は本来的には自我と呼ばれるべきではないし、断じてそう呼ばれてはならない。自我と呼ばれてしまったら、それはすでに対象的なものになってしまっているからである。それは、把捉可能なすべてのものを超えた名前を欠いたものであり、…存在者ではなく、把捉する、評価するなどといった仕方で『機能する者』([das]„Fungierende“)なのである」(XXXIII,277f.) ―――――――――――――――――――(p2)
(9)-B—――――――――――――――― 5. 原自我について それでは、「原自我」という概念は、どのように理解されるべきだろうか。それは、生き生きした現在における生の極化した機能(Fungieren)を名指すために用いられた語であり、それによって、反省され対象化された「自我」主体が意味されているわけではないことに、注意しなければならない。けれども、そうは言っても、生き生きした現在におけるこの生の機能は、「現象学する目覚めた私」によって「適切な反省」において見出されるので、「私の」機能として捉えられ、「原自我」として言語化されざるをえない。しかも、名指されることによって時間化・存在者化され、内在的時間のうちに位置づけられるので、「原自我」は必然的に〈時間化しつつ時間化される(自我)生〉において捉えられざるを得ない。後期時間論のテクストを踏まえた「原自我」に関する拙著のテーゼは、以上のようにまとめられる。 ――――――――――――――――――(p3)
わたしのは後でまとめて。
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