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Re[63]: :つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/11/23(Sun) 18:56:25)
| No44719で[ego]をわたしのばあい「我」ってして見ることにしたんだけど、現象学のでは「自我」って言う日訳になってるんだと思う。
フッサールの「自我」についてなんだけど、 No44414資料(8)のなかに、 (8)-A―――――― フッサールにおいて自我とは、「私は知覚する」「私は考える」というように、何らかの具体的な意識の働きと不可分なものである(Cf.III/1,178-180;IV,97,111)。 意識が常に「或るものについて」働きという「志向性」を具えていることを踏まえれば(Cf.III/1,73-75,187-189)、意識の眼差しが向かう「或るもの」が「客観」・対象であるのに対して、その眼差しの発端が「主観」・自我である(cf.III/1,75;IV,97,105) ――――――――――――――――(p116) (8)-B―――――― 「音楽を聴きつつコップを見ながら、もう一杯コーヒーを飲むかどうかを考える」というように、様々な種別の意識体験が同時に生じ、さらに刻々と変化してゆく。 自我は、そうした体験流を統一する機能的契機として、そのつどの具体的な意識体験から抽象的に析出される(cf.IV,99) ――――――――――――――――(p116) っていうのあった。
こういうのから見ても、フッサールのはやっぱ、 〔(具体的な)意識体験〕における「自我」〈考える我〉におけるもの、って見てもよさそう。(ほら具体的なモナド、みたいなこと彼、言ってるじゃん)
そういうなかでなんだけど、とくに、 資料(5)では、〔〈生き生きした現在〉において「作動するもの(das Fugierende)」 資料(8)では、〔まさに働いている自我〕〔今まさに働いている意識〕〔今まさに生き生きと働いている〕〔そこで今まさに働いている自我〕 資料(9)では、〔生き生きした現在におけるこの生の機能〕 資料(10)では、〔生き生きした現在に関する思考〕 ってあって、こんなようなのをフッサールは考えてるんだとわたし見てるのね。 こういうのを、わたし、〈生(なま)の考える我〉、もっとちじめて〈なまわれ〉って名づけようかな?ってふと思ってるんだけど、まだこの命名は保留ね。
あ、(8)-Bの〔体験流〕っていうの、〈経験的「時間」の流れ〉、ってっていうふうにわたし見てる。
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