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Re[32]: :つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/10/13(Mon) 18:08:42)
| カントの(私)っていうのをきっかけに、フッサールの「原-自我(Ur-Ich)」っていうのを想いだして、またそれを見ようとしてるんだけど。
日本語で見て、「私」っていう語、同じような意味で使われる語としていろいろある感じしてて、それらをネットで外国語のを調べて簡単にまとめてみたので添付しま〜す(自己、自己自身、我、自我っていうのはわたし普段あまりお目にかからないのだけどね)。
あくまでもわたしの簡単な参考用としてね、っていうのは、 No41741(FD)『デカルト的省察』の訳注から、 〔原文では、一般的な人称代名詞であるichと、その名詞化であるdas Ichと、ラテン語の人称代名詞であるego、およびその頭文字を大文字化したEgoが、使い分けられている(どこまで厳密に使い分けられているかは、難しいところだが)。本訳書では、ichを「私」、das Ichを「自我」、egoおよびEgoを「我」(エゴ)とした。それぞれの違いにつては、本文のさまざまな文脈から読みとっていただきたい。〕P283序訳注(7) っていうのもあって、あと、外国語の訳仕方や、当の哲学者のその用語のちゃんとした使い分けの問題もある感じ。
あと、(FD)訳注に、 〔デカルトはせっかく発見した「思う〔思惟する〕我」を「世界の小さな末端」である「人間としての我」と捉えてしまった。それは、フッサールの言う「超越論的な主観性」を捉え損ない、世界内部の「超越的な主観性」としてしまったものである。〕P295第2訳注(1) ってある。 フッサールは、デカルトは、思う〔思惟する〕「我」、を発見した、って思ってるみたい。 No44376のようなのを見るとそうなのかも、とも思える。
わたしのばあい、デカルトのはあくまでも〈考える我〉だと思ってるから、「cogito」っていうのは「我考える」であって「私は考える」じゃなく見てる。「私」と「我」とはわたし区別してる、っていうことね。 他の日本語のそれぞれのわたしの意味があって区別してるんだけどこれは前に書いたからここではいいかな。
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