| ■44376 / ) |
Re[26]: :つれづれなるままに
|
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/10/04(Sat) 14:36:51)
| カント訳本を読むとき、 No43305のように、「意識」を〈コギト(私は考える)〉ってして見ることにわたししたんだけど、 カントのからちょっと離れて、 「意識」っていうの、いまでは一般的にどのように言われているのかをネットで調べて見たのね。コトバンクにいっぱい書いてあったんだけどそのなかから一部書き出して、あと「自己意識」も調べて見たのでそれも一部書き出して見て見る。
*「意識」 consciousness 英語 Bewußtsein ドイツ語 conscience フランス語 (c1)―――――――――――― 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典 ‥‥英語のconsciousnessは,接頭辞cumとscire(知る)の過去分詞sciusとからなるラテン語consciusを語源とする。cumは一般に共同的な含意を作る語であるから,con-sciusは,(1)ある知識をだれかと共有したり,共犯関係にあること,あるいは(2)ある行為や思考,感情などに,それについての知,すなわち自己意識が伴っていることを意味していた。(3)その際,その自己意識が欺瞞を含まない限り,それは〈良心conscientia〉と呼ばれてよいであろう。スコラ哲学では,この用法がしだいに重きをなしていったと言われている。このconscientiaが英語のconscience(良心)やフランス語のconscience(意識)になるわけであるが,ドイツ語でも,古形のGewissenからBewusstsein(意識)が独立したのは,やっと18世紀のC.ウォルフからであるという。 意識という語のとくに近代的な意味は上述の(2)にあると考えられるが,その確立はデカルトとともに始まったと言ってよい(彼は多くはコギタティオcogitatioという語を使ったが)。彼が精神を〈考えるもの(レス・コギタンス)〉と規定したとき,そのコギトとは自己意識にほかならなかったからである。・・・ ――――――――――――――――― (c2)――――――――――――――― 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 意識の哲学 一方デカルト、カント、フッサールに代表される西洋の伝統的近・現代哲学によれば、およそ人間が経験し知るいっさいのものは、意識を通じ、「意識された」ものという形で経験され知られるが、その際、経験され知られるほうのものは、普通、意識の「対象」ないし「意識内容」とよばれ、経験し知る働きの側面は「意識作用」と称される。意識はあらゆる知識の基盤であるがゆえに、その意識を事典的知識の項目として提示するのは絶望的に困難であるが、現代における精緻(せいち)な意識哲学の代表例であるフッサールの現象学によれば、知識(経験)成立の場所である意識の構造契機として、感覚素材的なヒューレhlē(ギリシア語で質料の意)とそれを生化する統握(とうあく)つまり意味付与作用との二つの層を含む実的(ドイツ語でレーエルreell)な体験、およびその体験の非実的(ドイツ語でイデエルideell)な相関者との2契機があり、これら両者の相関関係によって意識の「指向性」、つまり「――の意識」であるという意識の対象指向性、対象「の」意識であるという知識的性格が保証される。 ――――――――――――――――――――
*「自己意識」 self-conciousness 英語 Selbstbewußtsein ドイツ語 conscience de soi-même フランス語 (s1)―――――――――― 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 自己自身を志向的対象とするような意識の総称。近代ヨーロッパ哲学で原理的な役割を占めたことばである。中世的な神中心の思想から人間主体を中心に考えていく際に、哲学的な概念としては自己意識が使われた。発端はデカルトの「われ思う、故にわれ在り」の思想で、いっさいの疑いを克服する確実なものの根拠が人間の自己意識に据えられた。カントにおいては、この「われ思う」という自己意識の統一性が、多様な表象を一つのまとまりある経験へもたらすものとして位置づけられた。カントの自我概念はフィヒテに至ってさらに首尾一貫化されて全面化され、ヘーゲルへと受け継がれていった。・・・・ ――――――――――――― (s2)――――――――――― 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 【コギト】より …コギトはもともと〈考える〉とか〈意識する〉という意味のラテン語cogitareの一人称単数形にすぎないが,今日ではむしろ〈自己意識〉を含意し,精神や自我の本質を自己意識に見ようとする立場と結びつけて語られる。かつてデカルトが《方法叙説》(1637)の中で,絶対不可疑の真理を発見すべく,まずあらゆるものを疑ってみるという〈方法的懐疑〉から出発し,その結果〈そう考えている私は何ものかでなければならぬ〉として〈われ思う,ゆえにわれ在りJe pense,donc je suis〉の命題に到達し,これを〈哲学の第一原理〉と呼んだことに由来する(コギト・エルゴ・スムcogito,ergo sumはその命題のラテン語訳)。… ――――――――――――― (s3)―――――――――――― 脳科学辞典 同義語:自意識,再帰的意識 自己意識とは、外界ではなく自分自身に向けられる意識のことであり、向けられる自己の側面によって2つに分けられる。ひとつは、他者が観察できる自己の外面(容姿や振る舞い方など)に向けられる公的自己意識(public self-consciousness)、もうひとつは他者から観察できない自己の内面(感覚,感情,思考など)に向けられる私的自己意識(private self-consciousness)である。これらの用語は、注意が自己に向けられた状態を表す公的自覚状態(self-awareness)、私的自覚状態(private self-awareness)と混同されやすく、区別されずに用いられる場合もある。 ―――――――――――――――――
ここんところから、わたしの見えでは、 (a1)「意識」っていうの、西洋の伝統的近・現代哲学ので見たばあい、主にコギトのことを指してる感じ。 (a2)「意識」は、「意識作用」と「意識内容(対象)」に分けて区別されてる。 西洋の伝統的近・現代哲学のを見るとき、 「意識」=〈コギト(私は考える)〉、ってして見ておいてもよさそう。 そして、〈考えることをしている私〉の〈私〉へ向けられる意識を「自己意識」って呼んでて、 「自己意識」=〈(私が存在する)と(私は考える)〉、ってして見ておいてもよさそう。
コトバンクの中からわたしが抜粋して見たのは上のようなものなんだけど、この他にももっといろいろ書いてあって、だからどのような意味とするかは人によってさまざまだなんだと思うけど。 ちなみにわたしのばあい、 (A-c)「意識」=〈脳(身体)の機能とそれによって産み出されてるもの〉、ってして見てて、〈感覚・知覚・記憶・想像・思・考・感情・欲望・意志…〉って呼ばれてるみたいなのがある。 ってして見てる。 だから、〈考えること〉だけが「意識」じゃないのね。
|
|