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Re[61]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/05/22(Thu) 18:50:16)
| No43291、つづけるよ。
まず、(Aq2)のほうからお喋りしてく。
(Aq2A)「多様なものに統一をもたらすことができるのは意識だけである」 で見るね。このカントの言う日訳の「意識」っていうのについてね。
わたしのばあい、〈感覚、知覚、記憶、想像、思考、感情、欲望、意志…〉みたいなの、こういうのぜ〜んぶまとめて〈意識〉って呼んでて、〈無意識〉っていう〈意識〉もある、ってして見てるんだけど。 でもカントのを見るとき、こういうんで見ちゃうと分け分かんなくなっちゃうみたい。
(Aq2)のところで、御子柴さんは、〔ここで話題が「考える」ことに移っている〕(p168)、〔それは「意識」です。すなわち、考えられている対象の同一性を保証しているのは、対象を考えている側の意識なのです〕(p169)って言ってるのね。 でね、カントの「意識」っていうの、 〈「私は考える」という意識〉のことってして見たらどうかしら、って。 「私は考える」っていうのは、「ego cogito」とか「Ich denke」。これ簡単に〈エゴ・コギト〉って表記することにするよ。 カントの見てくときに、「意識」を〈エゴ・コギト〉に言い換えて見てく、っていうこと。 で、 (Aq2A)は、 《多様なものに統一をもたらすことができるのは〈エゴ・コギト〉だけである》 ってなる。 あと、 No42812の(1)の H〔知覚は…つねに経験的に意識されるもの〕(本Ko,p272) をもう一度見て見ると、 カントの〔経験的〕っていうのは〔知覚〕と〔経験〕に分けられてるみたいで、ちょっとまぎらわしいので、わたしのばあい前者を〈素朴的〉、後者を〈科学的〉ってして見て、〔経験的〕って書いてあったら〈素朴的/科学的〉ってして見て、 カントの〔意識〕を〈エゴ・コギト〉ってして見ると、 Hは、 《知覚は…つねに〈素朴的/科学的〉に〈エゴ・コギト〉されるもの》 ってなる。
カントのを見るとき、カントのはこういうんで見ていったらどうかな、って。
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