□投稿者/ SumioBaBa -(2025/04/22(Tue) 02:05:00)
| 〔7〕「真如」の記述には量子論理が必要
仏教は「真如」という概念により、「世界の真の在り方」を直観で完璧に見抜いていたらしい。ところが、我々が普通に使っている「古典論理」で記述しようとすると矛盾だらけとなり、「真如」を定義することができない。実際「真如」は言葉で説明できないとされる。「真如は「○○○である」」と言葉で表現すると、「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけに限定されてしまい、何一つ限定されない「真如」の記述に失敗してしまうからであった。言葉で定義できないものは、科学の研究対象にはなれない。だから仏教では、「「真如」は言葉では説明できない」と諦めてしまい、座禅や瞑想、読経や写経、念仏や呪文などの方法により、「真如」を心で感じ取ろうとする方向に向かってしまったらしい。
ところが「量子論理」を用いれば、「古典論理」では表現不可能とされてきた「真如」を完璧に表現可能になる。こう表現すれば良いのである。 真如はあらゆる○○○についてa「○○○である」+ b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1) …[0] この[0]はトートロジーだから、証明不要のまま恒真だし、「なぜ?」という謎も発生しようがない。「古典論理」では言葉で説明できないとされてきた「真如」を、「量子論理」では言葉で完璧に記述できるのである。
『大乗仏教概論』の中で、鈴木氏はこう書いている。
ーーーーー馬鳴(めみょう)が言うように「真如とは存在するものでも非存在なるものでもなく…」ーーーーー(P92)
これは正しい。それなのに鈴木氏は、その後これをすっかり忘れてしまったかのように、こう書いている。
ーーーーーなぜ無明があるのかという疑問は、なぜ真如があるのかという疑問と同じく、誰にも答えることはできない。ーーーーー(P107)
これはダメだ。鈴木氏は「量子論理」を知らず、頭の中が「古典論理」でがんじがらめなのである。だから、「真如」は「存在」でも「非存在」でもない、と書いておきながら、「「真如」は「存在する」」が真で「「真如」は「存在しない」」が偽だと思い込んでいるのである。そして、《謎》=「なぜ「「真如」は「存在する」」が真で「「真如」は「存在しない」」が偽なのだろう?」に誰も答えることはできない、と書いている訳である。そんな《謎》など存在してもいないのに。
「真如」の矛盾した性質は「古典論理」では記述できず「量子論理」を使う必要がある。[0]で「○○○である」=「存在する」、「○○○でない」=「存在しない」とおくと、こう表現できる。 真如はa「存在する」+b「存在しない」(0≦a≦1、0≦b≦1)…[0a]
これは「真如」が、「存在する」(a=1、b=0)かもしれない、「存在しない」(a=0、b=1)かもしれない、「両方」(a≠0、b≠0)かもしれない、「片方」(a=1、b=0、または、a=0、b=1)かもしれない、とすべての可能性を考慮しているため、決して外れようがなく、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)になり、「なぜ?」という謎も発生しようがない。
このように「古典論理」に縛られていると《謎》に答が見付からない。「量子論理」で考えれば[0a]はトートロジーであり、《謎》などそもそも存在してさえいないのである。
参考文献 「真如」ですべてがトートロジー(1)〜(4) No41498,41547,41589,41662 仏教で解けない謎を量子力学で解く(1)(2) No41975,41976 量子仏教〔1〕〜〔5〕 No42050,42051,42067,42099,42133 量子仏教〔6〕 No42678
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