□投稿者/ SumioBaBa -(2025/04/22(Tue) 01:21:18)
| 〔6〕大乗仏教の「真如」
大乗仏教でいう「真如」(しんにょ)という概念が、量子力学の「多世界解釈」W0=W1+W2+W3+…〔色即是空・空即是色〕と完全に一致する。「真如」とは「世界の真の在り方」「存在のあるがままたること」といった意味である。
そもそも世界は、どんな状態でなければならないという論理的必然性も無いし、「存在する」と「存在しない」のどちらでなければならないという論理的必然性も無いのではないか? だとしたら、何一つ論理の飛躍をしないため、世界は本来あらゆる○○○について、「○○○である」「○○○でない」「両方」「片方」というすべての可能性を持っていた、と考えてみるべきである。実際に「真如」は、どんな○○○についても「○○○である」と「○○○でない」の片方に限定されていない、と説明される。
仮に世界の初めとしての「真如」が、論理的必然性も無いのに、ある○○○について既に「○○○でない」ではなく「○○○である」の方に限定されていたと考えてみよう。
真理を片方だけに限定するときは、ただの〔仮説〕になってしまうから、まず〔仮説〕=「世界の初めは「○○○でない」ではなく「○○○である」の方に既に限定されていた」を証明せねばならないという、立証責任が発生してしまう。
仮に実験・観察により〔仮説〕が真らしいと判明しても、それは自分が住む世界W1の中だけの話でしかないし、またまた《アポリア》=「論理的必然性も無いのになぜ世界は初めから、「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけに限定されていたのか?」という謎に答が見付からなくなる。そして「そんなの知るもんか。なぜかそうだからそうなのさ。」で諦めるしか無くなる。これが「科学の限界」であった。
その点「真如」は、見事に「科学の限界」を超越している。「真如」は何一つ限定されていないのだから、《アポリア》は一切発生しようが無いのである。
ただし「古典論理」(「真」と「偽」のニ値論理)だと「真如」は言葉で説明できない。「真如は「○○○である」」と表現すると、「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけに限定されてしまい、何も限定されない「真如」の定義に失敗してしまう。
「真如」を正しく記述するためには、「量子論理」(a「真」+b「偽」、0≦a≦1、0≦b≦1、の多値論理)が必要である。完全無限定で有矛盾の「空」W0が、様々に限定された無矛盾な「色」W1、W2、W3、…に分裂し化けるのである。「量子論理」では、「「○○○である」と「○○○でない」のどちらなのかを観測していないとき」という条件付きで、「a「○○○である」+b「○○○でない」(a≠0、b≠0)」というあからさまに矛盾した状態が存在し得る。あるいは、「「真」と「偽」のどちらなのかを観測していないとき」という条件付きで、「a「真」+b「偽」(a≠0、b≠0)」というあからさまに矛盾した状態が存在し得る。
「○○○である」と「○○○でない」のどちらなのかを観測すると、「○○○である」(a=1、b=0)または「○○○でない」(a=0、b=1)の片方に確定し、観測結果は必ず無矛盾になるのが量子力学である。
「多世界解釈」だと、観測する以前の世界W1ではa「○○○である」+b「○○○でない」(a≠0、b≠0)という重ね合わせの状態だったのが、観測することで、「○○○である」(a=1、b=0)に確定した世界W1aと、「○○○でない」(a=0、b=1)に確定した世界W1bとに、世界W1が分裂したのだ、と解釈する。3つすべてを含む一般論は、a「○○○である」+b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1)と表現できる。
参考文献 「真如」ですべてがトートロジー(1)〜(4) No41498,41547,41589,41662 仏教で解けない謎を量子力学で解く(1)(2) No41975,41976 量子仏教〔1〕〜〔5〕 No42050,42051,42067,42099,42133
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