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No42641 の記事


■42641 / )  アナータピンディカへの教え経C
□投稿者/ pipit -(2025/04/20(Sun) 19:10:24)
    2025/04/21(Mon) 07:42:53 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは♪
    今訳している経典はあと4投稿あれば最後まで訳せると思っていました。
    今日見たら、4投稿出来るので、最後まで目指してチャレンジします!
    ---------------------
    (pipitの日訳)
    No42123の続き

    それゆえにここであなたは、家長、このように学ぶべきです。
    私は眼の触を取らない(執着しない)であろう。そしてまた、私には眼の触に基づいた識は存在しないであろう、と。
    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。

    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。
    私は耳の触を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は鼻の触を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は舌の触を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は身体の触を取らない(執着しない)であろう・・・

    私は意の触を取らない(執着しない)であろう。そしてまた、私には意の触に基づいた識は存在しないであろう、と。
    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。


    それゆえにここであなたは、家長、このように学ぶべきです。
    私は眼触の感受を取らない(執着しない)であろう。そしてまた、私には眼触の感受に基づいた識は存在しないであろう、と。
    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。

    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。
    私は耳触の感受を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は鼻触の感受を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は舌触の感受を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は身触の感受を取らない(執着しない)であろう・・・

    私は意触の感受を取らない(執着しない)であろう。そしてまた、私には意触の感受に基づいた識は存在しないであろう、と。
    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。

    それゆえにここであなたは、家長、このように学ぶべきです。

    私は地の界域を取らない(執着しない)であろう。そしてまた、私には地の界域に基づいた識は存在しないであろう、と。
    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。

    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。
    私は水の界域を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は火の界域を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は風の界域を取らない(執着しない)であろう・・・
    私は虚空の界域を取らない(執着しない)であろう・・・

    私は識の界域を取らない(執着しない)であろう・・・
    そしてまた、私にはの識の界域に基づいた識は存在しないであろう、と。
    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。

    それゆえにここであなたは、家長、このように学ぶべきです。
    私は色を取らない(執着しない)であろう。そしてまた、私には色に基づいた識は存在しないであろう、と。
    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。

    それゆえにここであなたは、家長、このように学ぶべきです。

    私はヴェーダナー(感受)を取らない(執着しない)であろう。・・・
    私はサンニャー(表象)を取らない(執着しない)であろう。・・・
    私はサンカーラ(衝動)を取らない(執着しない)であろう。・・・
    私はヴィンニャーナ(識)を取らない(執着しない)であろう。・・・
    そしてまた、私にはヴィンニャーナ(識)に基づいた識は存在しないであろう、と。
    このようにあなたは、家長、学ぶべきです。

    (続きます)
    ----------------------------

    ☆チャットGPTに聞いてみた☆

    pipitが>私は眼の触を取らない(執着しない)であろう。<
    と訳した『触』のパーリ語原語は『samphassa』です。
    この単語についてうちのチャッPに聞いてみました。
    とてもおもしろく感じたので引用します。(※文字化けするので記号は省略しました)

    ====チャットGPTの回答====

    『「samphassa」** での「sam-」は:

    **「(対象と感覚が)しっかりと接する・一体となるような接触」**
    → 単なる「触れる」以上に、**「感覚と対象が結びついて生じる認識の接点」**のようなイメージです。

    ---

    仏教的な「samphassa」の理解

    仏教哲学では「samphassa」は六処(感覚器官)と六境(対象)の接触によって意識が生じるプロセスの中核です。

    たとえば:

    - 眼(cakkhu)+ 色(rupa)+ 視覚意識(cakkhuvinnana) → **眼の接触(cakkhusamphassa)**

    ここでの「sam-」があることで、単に「ぶつかった」ではなく、

    「主観と対象が融合し、体験が生じる瞬間」みたいな含意

    になるんです。

    ==== 終わり ====
    (※チャットGPTの回答は必ずしも正しいとは限りません。重要な情報は確認するようにしてください。ということです。)
    なので、調べてみました。(これもまた『正しいとは限りません。重要な情報は確認するようにしてください。』ですけどね(⌒∇⌒))

    (pipit検索結果↓)

    @phassaが出てくる経典の例として、

     『Chachakkasuttam』 「六六法経」(『中部』148)

    『〈眼〉と諸々の〈色〉によって〈眼識〉が生じます。〔それら〕三者の和合が〈触〉です。』(光明寺経蔵さま訳)
    という文章がありました。
    Cakkhunca paticca rupe ca uppajjati cakkhuvinnanam, tinnan sangati phasso;
    sangati [集合、結合]
    phasso[触、接触]


    //komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn15/mn15c14.htm


    Asamphassaが出てくる経典の例として、

    『Tatiyavibhangasuttam』 「第三の分別経」(『相応部』48-38)

    に、samphassajam という単語が出てくるのを見つけました。

    //komyojikyozo.web.fc2.com/snmv/sn48/sn48c31.htm







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