□投稿者/ pipit -(2025/04/16(Wed) 19:06:43)
| 2025/04/16(Wed) 19:09:47 編集(投稿者)
悪魔ちゃん、こんばんは(^ ^)
No42238 > (a)「感覚の始まりである0」ってして見る。 > (本Ko)のBに、 > (c)『感覚はある量・・・・内包量をもつ』 > (本Ko-O)のBに、 > (b)〔知覚の含んでいる感覚がもつ量〕 > ってある。 > (a),(b),(c)から、 > 感覚と知覚をセットにして、〈感覚-知覚〉ってして見て、 > > (Ko4-A4)〈感覚-知覚〉において、カントが「0」と呼んでいるものは「内包量」をもつ > > ってして見る。<
違ってたらごめんやけど、 感覚の始まりが、感覚の形式を表現してるとしたら、内包量を持たないゼロ、かもしれないなと思いました。
カントがカテゴリーに沿って『無』を説明してる箇所は、純粋理性批判B346- です。 御子柴先生の解説では、角川選書のp354-です。
『関係のカテゴリーに含まれる実体概念の対象が欠如している場合の「無」』 について述べた、カント文章を引用します。↓
(カントの文章) 『実体をもたない直観のたんなる形式は、それ自体ではある対象でなく、(現象としての)対象のたんなる形式的な条件である。たとえば純粋な空間、純粋な時間などであり、これは直観の形式としては〈何かあるもの〉であるが、直観される対象ではない想像物(エンス・イマギナリウム)である。』 (『純粋理性批判3』中山元先生訳、p303より引用)
この部分の御子柴先生解説文は、角川選書のp358の真ん中あたり、「想像物(ens imaginarium)」という単語から始まる箇所です。
対象一般について内包量ゼロでも形式としての「想像物」として純粋直観は存在できるってことかなぁ? 違うかな?わかりませんが...
それでは失礼しましたm(_ _)m
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