□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/28(Fri) 18:34:17)
| 2025/03/28(Fri) 21:52:52 編集(投稿者)
ザビビのふくろうさん、レスありがとうございます。
■No41527に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
>>最初に投稿されたSumioBaba(=S)さんのNo41309の投稿はシャンカラの「マーヤーの幻影」と相通じるものがあると感じましたが、SumioBabaさんやknowing itselfさんの投稿を「シミュレーション仮説」として解釈されるのはさすがです。 >>確かにAIがこの世界の創造者であるとすれば全知全能であることも理屈的には納得できます。
> ありがとうございます。 > SumioBabaさんとknowingitselfさんのお二人がどうおっしゃるかは別として、 > パニチェさんにそう言っていただけたなら、少なくともそんなにひどい解釈ではないのかなと、少し安心しました。 > ちなみに、パニチェさんは「シミュレーション仮説」については、どう考えてらっしゃるんですか? > 参考までに、教えてもらえればありがたいです。
シミュレーション仮説に類似する仮説というか言説は以前からありますね。 有名なところではジッドゥ・クリシュナムルティもデヴィッド・ボームとの対談集で、宇宙的な精神というものがあり、物質的な宇宙は肉体の役割を果たしており、人間の精神も呪縛から解放(見性?)されれば宇宙的精神と合一すると述べています。 あといくつかの書籍(よく覚えてないのですが)や覚者と呼ばれる人の言説で我々の意識は宇宙が自分自身を内観するために生じているみたいな話もありました。
私たちの意識が脳(脳や神経細胞も含めた身体性全体)の随伴現象または創発現象であるなら、宇宙の全ての物質も量子力学的には神経細胞と同じく不可分であることから、これにともなう(それを意識や精神と呼べるかどうかはともかく、私たちの想像を絶するような)非物質的な何かがあるとする仮説も非科学的だとは思いません。
>>もし私たちに自由意志または私秘性があるとすれば、たとえ創造者であっても全知全能者にはならないのではないか、と。 >>それはまるで映画マトリックスでも描かれている、創造者であっても予期もできなければ制御もできないエラーやバグが発生するような世界となるのではないかということです。
> う〜ん、私としては、エラーやバグが、AI(神)の予知や制御の内にないということ、つまり全知全能を破るものだということは、なるほどと思うのですが、 > 自由意志や私秘性もそうかと言うと、ちょっと無理があるようにも感じます。 > というのは、自由意志が心のはたらき、私秘性が心の私秘性だとすると、(私の理解が間違っていなければ)まさにその心がAIにより見させられている夢だとするのがシミュレーション仮説だと思うので、AIの制御から自由な意志、AIに知られえない心の中、というのはこの仮説の下では無理な気がするんですね。 > でも、だったら自由意志はないことになる? > う〜ん、自信ないな(笑) > 意志がコンピュータのはたらきによるものでなくて、VR外の私の脳のはたらきによるものなら、自由意志はあることになるのか?(なんかショーペンハウアーの意志に似てきたような気が…) > それとも、その意志が世界内に現象するのであれば、やはりAIの制約から逃れ得ないのか? > まあ、よく考える必要がありそうなので、ここは保留ということで^^ > もし、パニチェさんが違うとらえ方をされているのなら、教えてもらえますか?
ごめんなさい。私も自分で結論を出せていないことを書いてみたというところです(笑)。 自由意志の有無についても、現実は「マーヤーの幻影」なのか「水槽の脳(夢を体験している私の主体は世界外にある)」なのか、それとも現実がすべてなのか、現時点ではペンディングです。
> あ、それと、アドヴァイタでは自由意志を認めるんでしょうか?ご存知ならご教示ください。
おそらく認めていると思います。 根拠はバラモン教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』です。 この聖典はヴェーダーンタ哲学の根本教理となる不二一元論が説かれています。 『バガヴァット・ギーター』は同族同士が戦い殺し合うことに深く悩み戦意喪失したパーンダヴァの勇士アルジュナが賢者クリシュナ(最高神の化身)の教えによって鼓舞されるという設定となっています。 悩める者もそれを励ます神の化身も自由意志を前提としなければこの聖典は成立しないように解釈できるからです。
>>またライプニッツ以来の存在論的問いは〈私〉に関しても同様だと思います。 > ここを読んで,ふと疑問に思ったんですが, > パニチェルームの「独在論」という文章で,
> >一方、独在論というのは自我の有無にフォーカスしているのではなく、存在の在り方というか様相にスポットを当てる。 > と書かれてますよね。 > これ,ご自分の独在論は存在論ではない,という考えなんでしょうか?
Panietzsche Roomを覗いていただき有難うございます。 なんか嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、ちゃんと見直さないと、と思いました。^ ^;
結論から言うと存在論でもあり、かつ認識論でもあります。 まずそこで触れている独在論というのは永井均氏が独我論と区別するために使い分けている独在論のことです。 独我論にせよ、独在論にせよ、他者や世界は存在しない、または存在のレベルが自分の存在ほど確たるものではないということを前提とした論になるのだと思います。
他者や世界の存在を認めないというのは自然的態度からかけ離れているし、私が探究している対象はあくまでも〈私〉であって他者や世界の存在ではない。 むしろ他者や世界の存在と〈私〉の存在の非対称性であることなから、存在の在り方というか様相にスポットを当てていると書きました。
PS.せっかくザビビのふくろうさんが戻って来られたので、ウィトゲンシュタインの青色本に関してあらためて確認してみたいというか、後学のための教えてもらいたいことがあるのですがよろしいでしょうか。
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