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Re[31]: つれづれなるままに 18
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/06(Thu) 20:12:26)
| No41109でちょっとすっきりした感じ。
今日はわたし用にもうちょっと。
「分ける」っていうことで見たとき、 カントは、「内容」と「形式」を分けてる。 って見ることもできるかな。
わたしのばあい、カントのを見てくときにどうしても現象学のと対比して見ちゃうのね。 (『純粋理性批判』についてだから、pipiさまのところに書けばいいんだろうけど、こういうことからここで書くことにしてる。)
現象学では No36070のような「ノエマ/ノエシス」っていうのあって、両者は区別されてる。 ちょっとここらへんの、わたしに思われたのをペイントしたのあるから添付するね。前にも書いたと思うけど。
ペイントしたので見て見るね。 意識を分節したなかで、aとb〈するものa,b〉っていうのがあるとするのね。bはaに志向するのね。aはbの対象となってる。bの働きによってbの内に(b-a)が構成されるのね。bの内容が(b-a)、あるいはaっていうことになる。 〈するもの〉があって、その〈するもの〉が〈すること〉によって、〈されたもの〉ができる、みたいな。 このようなかで、カント的には、〈するもの〉が〈する〉とき、そのする「形式(仕方)」がある、って言ってるのかも。
カントので見ると、bを「Ersheinung(現象)」〈するもの〉、aを「感覚」〈するもの〉ってすると、現象は諸感覚されたものに志向するのね。〈感覚されてるもの〉が現象の対象となってるっていうことね。現象が〈すること〉によって諸感覚がまとまられ、現象の内に〈諸感覚がまとめられたもの〉(b-a)ができるのね。この(b-a)が現象の「内容」っていうこと、あるいは〔現象の内容が感覚〕(p89)っていうことになるのね。そして、現象が〈する〉ときには、その「形式(仕方)」がある。みたいな?
わたしのばあい、カントの「内容」と「形式」の区別を見るときにこんな感じで見るのね。 たしかに「形式(仕方)」っていうのはありそう。
次にカントの「形式を取り出す」っていうことについてね。
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