□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:51:56)
| ちょっと、反対に見ていってみます
■No37051
> そして最後に、純粋なアプリオリ概念は、カテゴリーにおける悟性の機能に加えて、感覚(つまり内的感覚)のアプリオリな形式的条件を含んでいなければならないこと---また、ただその下でのみカテゴリーが対象に適用することが可能となる一般的条件も含んでいなければいけないこと:<
純粋でアプリオリな概念が私たちにある。 カテゴリーにおける悟性の機能として。 それだけではなく、 その概念には、感覚(内官)の形式的条件→→時間も含まれている。 その概念には、カテゴリーの対象への適用を可能とする条件も含まれている。
>対象が私たちに与えられる唯一の方法は、私たちの感性の変容という手段によること: <
感性の変容、、、時間・空間という形式と共に生じる、感性の内容的変容によって、私たちの前に対象が現れる。
> 我々に与えられるか否か、どのように与えられるか、などの疑問を考慮しなくても、それら(純粋悟性概念)を物自体としての対象に適用することが不可能であること:<
感性を超えたものとしての物自体が我々に与えられるか、どのように与えられるかなどの考察とは別に、 純粋悟性概念は感性的対象にのみ適用されるので、物自体としての対象には適用出来ない。
> その(純粋悟性)概念に、あるいは少なくともその(純粋悟性)概念を構成する要素に、対象が与えられることなしには、純粋悟性概念は全く不可能であり、全く意味を欠くこと:<
概念と対象のペアで考えると、感性的対象以外の対象と純粋悟性概念はペア不成立で、純粋悟性概念は概念として機能できずに概念としての意味も持てない。
そんな感じかなー?と思いました。
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