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No36171 の記事


■36171 / )  ゆらぎ: 中山元訳「純粋理性批判」について
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/17(Wed) 15:15:38)
    2024/01/17(Wed) 15:18:03 編集(投稿者)

    No35962に返信(おくたがわさんの記事)
    考え直した点

    > (B)と(D)がカントが提示する論理学(超越論的)を指すのは間違いないとして、真ん中にある(C)が一般論理学とすると、直後の(D)における『そのような論理学は』が(C)をとばして(B)を受けるというのは不自然に見えます。なお、この部分で中山訳のみが(D)の前に改行を入れているが、他の3者ともに改行はありません。

    英文訳(J. M. D. Meiklejohn)では、

    (B)In this case, there would exist a kind of logic, in which we should not make abstraction of all content of cognition; (C)for or logic which should comprise merely the laws of pure thought (of an object), would of course exclude all those cognitions which were of empirical content. (D)This kind of logic 〜〜

    とあり、これだと、(D)が(B)を受けていると読めるのかも。kind が共通するのと、(C)が独立した文ではないので。
    原文も同じ形だとすれば、ここについての私の言い分は撤回します。
    後、for の後の or 、以前から気にはなっていて、逆説を意味するのなら、(C)が(B)とは異なるとも読めるが、
    これがもし原文にもあるとすれば、私の言い分(ここの主語が超越論的論理学)への反証の一環となり得る気がする。
    しかし、or を訳したと思える日本語訳は私が見た四人の誰もしていない。
    原文に当たらないとダメか・・・

    そして、前から気になっていた点、

    石川訳の『経験的な内容に関するような認識』の意味
    これが他の訳者の『経験的な内容を含む認識(天野)』、『経験的な内容からなる認識(中山)』、『経験的内容をもっているかもしれないような全ての認識(原)』
    ではなく石川が正確で、それが「[一般論理学が度外視する経験的な内容]からなる認識」のことではなく、
    他の意味であって
    「認識の内容を全て度外視(abstract)する論理学では、『経験的な内容に関するような認識』が全て除外される」
    が成立するとすれば、少なくともこれらの部分は辻褄が合うことになるでしょう。
    自分の主張の多くは、そこが『経験的な内容からなる認識』(一般論理学では、その内容が度外視され、認識どうしの関係だけが扱われる)のことだという読みの上に立っているので、そこが違っていると、かなり揺らいでくるかも。

    ただ、そのかんじんの『経験的な内容に関するような認識』が上の意味でないなら、何を指すのかが現状自分には分からないので、なんとも言えないですが。
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