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Re[39]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/19(Tue) 18:55:06)
| No35567のつづき、
わたしの「意識」の大きな分節の仕方、メルポンのから、〈知性〉と〈感性〉ってして見たんだけど、ちょっと引っかかるのあるのね。「知」っていう語、「知る」っていうの、なにも「学的世界理解」だけのものじゃなくて、〈感性(感覚・知覚・統覚)〉にも使っていいんじゃないかしら、って。 じゃ、どいう語で区別しよっかな〜って、〈学的〉と〈覚的〉?〈思考〉と〈経験〉?・・・・、いろいろ考えて見たんだけどいいの見つかんなかった。 もし、〈感性〉っていうのを「自然的」って呼んでいいんだったら、〈文化的知性〉と〈自然的知性〉って。 でも、いまはこれ、括弧に入れとく。 ひとまず〈知性〉と〈感性〉っていう語で。
ちなみに、 【「現象学事典」弘文堂2014】に、 〔フッサールにおいて総合は意識の原形式であり、その特徴は「流れ去る多様の統一」と規定される。〕 ってあって、そして、フッサールは、「意識(総合)」を「受動的総合」と「能動的総合」に分けてるみたい。そして、 〔能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕 ってある。
メルポンの「知性的意識」を「能動的総合」、「知覚的意識」を「受動的総合」、ってして見て、わたしのばあい、前者を〈知性〉、後者を〈感性〉ってして呼ぶことにしたんだけど。 っていうことは〜、「知覚」とか〈感性〉にも「総合(流れ去る多様の統一)」っていう働きがある、ってしてもいいかな。
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