□投稿者/ 時 -(2023/11/20(Mon) 10:44:56)
| pipitさんへ こんにちは。
■No35104に返信(pipitさんの記事)
> 多分なんですけど、sphere of neither-perception-nor-non-perception.と訳されてる禅定は、日本では「非想非非想処定」と訳されている境地なんじゃないかなと思っています。
私もそのように思います。 知覚と非知覚のどちらでもない領域、境地。想が非ず非想にも非ずの領域という事で、非想非非想処ですね。別の表現では、一に非ず二に非ずで不一不二の境地とも、有の世界の頂点で有頂天とも表現されているようですが、全て同じ領域の別表現です。原始では、非想非非想処(界、定)で良いと思います。
> wiki『禅定』より > https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A > 『8. 非想非非想処(ひそうひひそうしょ)- 漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。』 > 『〈無所有処〉を全く超越して、〈非想非非想処〉(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地)に達して住する。これが第七の境地である。』
ご紹介していただいたwikiを確認してみました。非想非非想処の第七の解脱の説明の所ではないのですが、
> 〈空無辺処〉を全く超越して、〈(すべては)無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが第五の解脱である。
> 〈識無辺処〉を全く超越して、〈何ものも存在しない〉と観じて、〈無所有処〉(=何も無いという境地)に達して住する。これが第五の解脱である。
上記(wikiの説明)では、識無辺処、無所有処共にどちらも第五の解脱となっています。
原始の長部16経「大般涅槃経」の八解脱の説明では、識無辺処に住するのが第五の解脱。無所有処に住するのが第六の解脱の境地だとあります。多分、wikiの説明は誤記・誤植だと思いますが、理解の流れ的にwiki等を参考にする場合には注意が必要ですね。
> 実践しなくてはわからないだろうと、理解は置いておくつもりなんですが、、、
仏陀の教えは、頭での道理の理解と実践での体験による理解の2つで構成されているのだろうと思います。この2つが重なった時に体得となるのでしょう。
|
|