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統覚の根源的・綜合的統一(予習)T−2
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□投稿者/ うましか -(2023/08/06(Sun) 23:32:15)
| 2023/08/06(Sun) 23:32:52 編集(投稿者)
◇ カント『純粋理性批判』
T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 第一三項 第一四項 第二節 〔第二版〕純粋悟性概念の超越論的演繹 第一五項 第一六項 統覚の根源的・綜合的統一について
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◇ 我思考す〔Das:Ich denke〕≠ニいうことは、あらゆる私の表象に伴うことができる≠フでなければならない。何故なら、さもなければ私の内では、全然思考され得ないものまでも表象されることになるからであるが、これは、そうした表象が不可能であるか、それとも少なくとも私にとっては無いものであるかのいずれかと同じことに他ならない。 全ての思考に先立ち与えられていることのできるような表象は、直観≠ニ呼ばれる。それ故、直観の全ての多様なものは、この多様なものがそこで見出されるのと同じ主観における我思考す≠ニいうこととの或る必然的な連関を持っている。 しかし、我思考すというこの表象は、自発性≠フ作用である。換言すれば、この表象は感性に属するものとみなされることはできない。
--- No. 32286 からの続き ---
◇ 私は、この表象を、それを経験的な統覚≠ゥら区別するために、純粋な統覚〔reine Apperzeption〕〔*1〕=A或いはまた根源的な統覚〔urspruengliche Apperzeption〕≠ニ名づけるが、それは、この統覚が自己意識〔Selbstbewusstsein〕であって、そのような自己意識はあらゆる他の諸表象にも伴い得なければならず、全ての意識において同一のものであるところの我思考す≠ニいう表象を産み出すので、いかなるものによってもそれ以上伴われ得ないからである。
*1 中山元訳2では、Apperzeptionを「自己統合の意識」と訳す。
◇ 私はまた、このような統覚の統一〔Einheit〕を自己意識の超越論的な統一≠ニ名づけるが、それは、そのような統一に基づいて、ア・プリオリな認識が可能であることを表示するためである。何故なら、或る種の直観において与えられる多様な諸表象は、それらがことごとく一つの自己意識に属するとまでいかないなら、ことごとく私の&\象となるまではいかないであろうからである。
◇ 換言すれば、私の諸表象として(たとえ私がそれらをそのようなものとして意識していないだろうとしても)それらの諸表象は、それらがその下でのみ一つの普遍的な自己意識においてまとまり合うことのできる¥件に、なんとしても必然的に従っていなければならないのである。というのも、さもなければ、それらの諸表象はあまねく私の属するとまではいかないであろうからである。この根源的な結合から、多くのことが結論されてくる。
† 原佑訳上巻、p.255〜p.256参照。 † その他に、中山元訳2、p.116〜p.117、石川文康訳上巻、p.186〜p.187を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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T−1 No.32286、T−2 No.32319
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