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No17988 の記事


■17988 / )  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/10/26(Tue) 18:23:05)
    おくたがわさん、こんばんはー
    (#^.^#)♪

    No17978
    > 意識一般のこと投稿すると言っておいて、していなくてすみません。
    > あのとき疑問だったのは、客観であるためには私の意識だけではダメと読めるような御子柴さんの文章で、おそらく皆さんも、そこは気にしておられたと思います。
    > カントの客観は一人の人間の中で成立すると思え、純粋統覚は一人の人間が場所や時刻が移っても一貫した意識で統一されるというように思えるので。<

    話題が少しずれるかもですが、関連して今思ってることを書かせていただきますね。
    No17852を書いた時も同じようなイメージがあったのですが

    主観から、わたしの世界、を意識内に作る時、
    大別して二つの世界を作ってるかも?と最近思っています。
    一つは主観の中での主観世界。
    もう一つは主観の中での客観世界。

    つまり、私 を設置して、私 が 客体を体験する世界を作る。
    (私の存在も、私が居ても居なくても関係ない存在も、同時に主観の内で作る。)

    おくたがわさんが作る、おくたがわさんがいなくても存在する(と想定する)世界の像と、
    pipitが作る、pipitがいなくても存在する(と想定する)世界の像が、
    それぞれの主観のうちで作られた中での、客観に妥当する客体となり、それは共通できる像(対象)と合意できるのではないかと。

    それで、この時キーポイントになってくるのが、物自体の触発による感性の表象ではないかと、思ってるんです。
    現れる位置って、自分勝手には決められないですよね。自発ではない。

    このことに関連すると思うのですが、柄谷行人さんという方の文章を抜粋引用します。
    『(略)ここでは、人間が能動的に対象を構成する前に、それを感性において触発する物自体、認識を可能にするがそれ自体は認識できない物自体が中心として見いだされている。言いかえれば、カントは、人間の受容性・受動性を強調しているのである。カント以降の哲学者はーショーペンハウエルのようなカント主義者でさえーすべて物自体という概念を拒否した。その結果として、カントは、世界を能動的に構成する主観性の哲学の祖と見なされるようになる。それはカント自身がいう「コペルニクス的転回」の方向に沿うものである。しかし、カントには、あくまで主観の受動性・被投性Geworfenheitを強調する物自体の概念がある。それは、いわば地動説という意味での「コペルニクス的転回」である。』
    現代思想1994年3月臨時増刊号p9より引用。

    もし、絶対空間的なものがわたしたちの感性の【形式】として存して、物自体の触発から主観に生じる時、各主観に対応した座標にそれぞれ現れるとしたら。。。

    No17852で引用した、カントの文章
    『それは、現象の一切の形式と存在あるいは非存在の一切の関係とがそこで生じる、空間と時間がただ一つであるのと同様である。』

    これはもちろん、一人の人間の中での『一つ』と読むのが無難かもしれませんが、
    一つの時間空間を私たちが共に生きている、と、とることも可能なのじゃないかな、と、疑っています。
    選択肢の一つとして、なのですが、、、

    んー、、、沼ですー(p_-)


    > ところで、「純粋統覚」でニーチェクラブ内を検索して思ったのですが、このトピはすでにカント辞典になってますよ。カントについて調べたい人に無料の辞典として宣伝したいくらい。<

    そんなことは全然ありませんが(><)
    ここまで書き込みさせていただいたパニチェさんには感謝しています
    m(_ _)m

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