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うましかさんへ 御子柴善之泉
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□投稿者/ pipit -(2021/09/11(Sat) 12:50:18)
| うましかさん、こんにちは! No.16176 > カント『純粋理性批判』における"transzendent"と"transzendental"の区別、御子柴本のp.369〜p.374、参考になります。<
今、さらっと読んだら、衝撃が((;゚Д゚))) 今はまだ全然理解(アンダースタンド!)できてないけど、ちょーおもしろそうで参考になりそう!! 理解したいです。
No.16185 > 理論付加性 〔英〕theory ladenness 観察や知覚は理論などに影響されない不変の与件、経験的知識の純粋な基盤ではなく、概念や理論を不可欠な背景としていることを要約的に表す概念.<
ここらへんもおもしろそうですよねー。哲学的な議論のことなどについて無知なのですが、実際の現象として興味あります。
沼。。。。
今、頭に浮かぶのは、(どっかで見たんだよなー、パラパラ、、、)
ぎゃー、今から読もうとしてる第一七項やった。。。 引用します。
『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p123から126から抜粋引用 ↓カントの文章の引用開始、[ ]は中山先生による補注。
『超越論的な感性論が明らかにしたところでは、〈感性〉による直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、空間と時間という形式的な条件にしたがうということだった[これが第一の原則である]。 そして〈知性〉に関するすべての直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、自己統合の意識の根源的で総合的な統一の条件にしたがうということである[これが第二の原則である](注)。 直観に含まれるすべての多様なものの像は、それがわたしたちに与えられるという意味では、この第一の原則にしたがうのであり、それが一つの意識において結合されることができるという意味では、この第二の原則にしたがわねばならない。 この結合なしでは何ものも考えることも、認識することもできない。というのも[この結合なしでは]与えられた像は、〈わたしは考える〉という自己統合の意識の働きにまったく与かることがないし、その働きによって一つの自己意識のうちで総括されることがないからである。 (中略) このように意識の総合的な統一は、すべての認識が成立するための客観的な条件である。 わたしが一つの客体を認識するためには、この条件が必要である。 それだけでなく、直観がわたしにとっての客体となるためにはこの条件にしたがわなければならない。 この総合が与えられないその他の方法では、多様なものは一つの意識のうちに結合されないはずだからである。』
↑引用終了。中山先生独自番号147.149 B137あたりから
ありがとうございます、御子柴善之先生の本もゆっくり読みまーす 楽しみー♪♪♪♪♪
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