| 『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(ニーチェ著「偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番」より)』
安楽死は選択肢としてあって然るべきだと思う。
以前に観た海外ドキュメント番組でALS女性患者の以下のようなメッセージが説得力をもって印象に残っている。
「いつでも自分の意思で苦しまず安らかに天に召される選択肢があることは今の自分にとっての唯一の救いです」
安楽死を認める国では、日をあけて何回かの意思表示を複数の医師が確認する手続きを経て主治医によって実施される。
誤解をおそれずに述べれば、ある条件下において死を選ぶ権利は人間としての特権であるように思う。
数人の仏弟子(ゴーディカ尊者、ヴァッカリ長老など)も自殺しており、釈尊はその死を肯定している。
自殺者は地獄に落ちるとか、現世に執着しその場を彷徨うなどという教えは安易な自殺を戒めるためのものであり、有余涅槃から無余依涅槃に至る即身成仏も自死に他ならない。
「死ぬ権利よりも、生きる権利を守る社会にしていくことが、何よりも大切」という意見はむしろ安楽死法案について議論が進まない主張であり、論点のすり替えに近い。
戦争に賛成する人など、世界のどこにもいないのに、軍拡や憲法九条の改正議論を始めようとすると、似非平和主義者が「戦争反対!」などと叫ぶ主張に近い。
安楽死法案がない我が国では現実的には人工呼吸器を付ける時点で、これを拒否するか、受け入れるかで実質的には自分の死についての選択に迫られる。
まして金銭的にある程度の余裕がなければ高額療養費制度があるとは言え、家計的に厳しいことに変わりない。
安楽死法案の検討は、決して「生きる権利を守らない」とか、ALS患者が生きようとする権利や意思を侵害したり、躊躇させるものではあってはならない。
安楽死という選択肢がないが故に、人工呼吸器を装着するか否かの選択、つまりひょっとすれば苦しいかもしれない尊厳死の選択しかないという現実も考慮すべきだと思う。
夫婦別姓と同じく、過度のパターナリズムは、この手の選択肢を他人事の如く綺麗ごとで己を美化するコメンテーターや評論家の言い分に騙されてはならない。
選択肢があるなら、自己責任で何れかを選べばいいことであって、選択肢を限定的にとどめることは余程の理由がないかぎり権利の侵害と同等であると思う。
ALS患者が「生きたい」と思えるような社会基盤づくりは別の議論として同時並行すればよい。
国会議員のスローガンや単なる掛け声、綺語(みだりに飾って、うわついて誠実さのない言葉)だけにはならぬよう現実的かつ具体的な法案や制度設計にしてもらいたいものだが、そんな社会いつ実現できるやら、わしは期待しない。
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