(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■6838 / inTopicNo.1)  Re[64]: 「私」と「我」
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 19:46:10)
    2020/09/20(Sun) 08:39:04 編集(投稿者)

    返信、横レスは以下のトピにどうぞ♪

    哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 2

    (「〈私〉について 7」も兼ねる)
引用返信/返信 削除キー/
■6836 / inTopicNo.2)  Re[63]: 「私」と「我」
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 18:50:02)
    2020/09/19(Sat) 19:27:30 編集(投稿者)

    No6834に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > デカルトの「ego cogito」は日訳で「我思う」ってなってるみたいだけど、
    > パニチェさまの場合、「我」と「私」あるいは〈私〉とは区別してます?
    > あ、それと、日本語では似たような語として「己」、「自己」、「自分」、「自身」みたいなのあるけど、これ区別してる?

    〈私〉とその他の言葉「我」「私」「己」「自己」「自分」「自身」は区別してるよ。

    〈私〉というのは言葉にすることによって変質してしまうところの「私」という語が指し示す誰にも当てはまらない唯一無二の存在のこと。

    「我」「私」「己」「自己」「自分」「自身」は辞書に載っている意味や用法でいいと思うし、特別な使い方をする必要がない言葉やわ。

    デカルトのコギトは〈〈私〉〉のことだと思う。
    それを読者が自分のこととして解釈した時点で〈〈私〉〉ではなくなる。

    〈私〉とは自分(パニチェ)のみに当てはまる言語化できない唯一無二の対象を表記したもので、本来は他者には当てはまらない。

    但し、おそらく(推論でしかなく、厳密には知り得ないが)他者にも同じような存在があるはずなので、それを〈〈私〉〉と表記してんねん。
引用返信/返信 削除キー/
■6835 / inTopicNo.3)  Re[63]: 「私」と「我」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/19(Sat) 18:13:20)
    ■6834、あ、「edo」になっちゃてる。
    訂正です。「ego」です。
    ごめんなさい。

引用返信/返信 削除キー/
■6834 / inTopicNo.4)  Re[62]: 「私」と「我」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/19(Sat) 17:56:39)
    デカルトの「edo cogito」は日訳で「我思う」ってなってるみたいだけど、
    パニチェさまの場合、「我」と「私」あるいは〈私〉とは区別してます?

    あ、それと、日本語では似たような語として「己」、「自己」、「自分」、「自身」みたいなのあるけど、これ区別してる?
引用返信/返信 削除キー/
■6711 / inTopicNo.5)  Re[61]: 死について
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/16(Wed) 21:38:47)
    2020/09/16(Wed) 21:51:55 編集(投稿者)

    No6710に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > >『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。』<

    > これが不可能な場合があるんじゃない?

    あるね。

    > ニーチェの死は、「誇りある仕方で生きることが可能であるとき」だったの?

    分からない。

    発狂後のニーチェは周りに「何故、そんなに悲しそうな顔をしているのか?こんなに幸せなのに」とか言っていたらしいけど、正常な精神ではないからね。

    でも発狂することによって休息の時を得たとは思う。

    以下、NIETZSCHE WONDERLANDより

    ***********************

    「汝なすべし」という定言命令を背負い
    力強い足どりで砂漠をゆく駱駝

    「我欲す」という力への意志からの雄叫びとともに
    自己超克の闘争に挑み続ける獅子

    「然り」という聖なる肯定をもって
    無垢なる遊戯に高じる子供

    偶然にして必然

    牧師の長子として生まれ
    アンチクリストを経てディオニュソスへ

    ニーチェの生涯は精神の三変化そのものである

    https://www.youtube.com/watch?v=N26hdXMZjo8


引用返信/返信 削除キー/
■6710 / inTopicNo.6)  Re[60]: 死について
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/16(Wed) 21:24:26)
    >『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。』<
    これが不可能な場合があるんじゃない?
    ニーチェの死は、「誇りある仕方で生きることが可能であるとき」だったの?
引用返信/返信 削除キー/
■6709 / inTopicNo.7)  自死について
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/16(Wed) 20:58:46)
    『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(ニーチェ著「偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番」より)』

    安楽死は選択肢としてあって然るべきだと思う。

    以前に観た海外ドキュメント番組でALS女性患者の以下のようなメッセージが説得力をもって印象に残っている。

    「いつでも自分の意思で苦しまず安らかに天に召される選択肢があることは今の自分にとっての唯一の救いです」

    安楽死を認める国では、日をあけて何回かの意思表示を複数の医師が確認する手続きを経て主治医によって実施される。

    誤解をおそれずに述べれば、ある条件下において死を選ぶ権利は人間としての特権であるように思う。

    数人の仏弟子(ゴーディカ尊者、ヴァッカリ長老など)も自殺しており、釈尊はその死を肯定している。

    自殺者は地獄に落ちるとか、現世に執着しその場を彷徨うなどという教えは安易な自殺を戒めるためのものであり、有余涅槃から無余依涅槃に至る即身成仏も自死に他ならない。

    「死ぬ権利よりも、生きる権利を守る社会にしていくことが、何よりも大切」という意見はむしろ安楽死法案について議論が進まない主張であり、論点のすり替えに近い。

    戦争に賛成する人など、世界のどこにもいないのに、軍拡や憲法九条の改正議論を始めようとすると、似非平和主義者が「戦争反対!」などと叫ぶ主張に近い。

    安楽死法案がない我が国では現実的には人工呼吸器を付ける時点で、これを拒否するか、受け入れるかで実質的には自分の死についての選択に迫られる。

    まして金銭的にある程度の余裕がなければ高額療養費制度があるとは言え、家計的に厳しいことに変わりない。

    安楽死法案の検討は、決して「生きる権利を守らない」とか、ALS患者が生きようとする権利や意思を侵害したり、躊躇させるものではあってはならない。

    安楽死という選択肢がないが故に、人工呼吸器を装着するか否かの選択、つまりひょっとすれば苦しいかもしれない尊厳死の選択しかないという現実も考慮すべきだと思う。

    夫婦別姓と同じく、過度のパターナリズムは、この手の選択肢を他人事の如く綺麗ごとで己を美化するコメンテーターや評論家の言い分に騙されてはならない。

    選択肢があるなら、自己責任で何れかを選べばいいことであって、選択肢を限定的にとどめることは余程の理由がないかぎり権利の侵害と同等であると思う。

    ALS患者が「生きたい」と思えるような社会基盤づくりは別の議論として同時並行すればよい。

    国会議員のスローガンや単なる掛け声、綺語(みだりに飾って、うわついて誠実さのない言葉)だけにはならぬよう現実的かつ具体的な法案や制度設計にしてもらいたいものだが、そんな社会いつ実現できるやら、わしは期待しない。
引用返信/返信 削除キー/
■6588 / inTopicNo.8)  Re[58]: 「わたし」と〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/13(Sun) 17:21:07)
    No6587に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > バニチェさん
    > >もしよかったら悪魔さんが言うところの「私」を教えて下さい。<
    > あらやだ〜。な〜んか紳士的。わたし、他人に教えるものなんてもってないよ。

    ははは。
    やっぱ紳士的なカキコはわしも堅苦しいので、以後、悪魔さんには一番レスしやすいタメの関西弁で返信させてもらうわ。

    > わたしのは自問自答。言いかえると〈問いかけ〉。

    なるほど。

    > >他者はともかく(厳密に言えば他者のことは知りようがありません)、〈私〉に関しては他者も含めて他の如何なる事物や現象などなどと存在の在り様が違いますし、これ以上確たる存在はない、言い換えれば存在そのものと言ってもいいと思います。<
    > わたしもこんな感じなのかな?

    そうなんや。

    > わたしのばあい、「わたし」と「私」を区別しています。「わたし」というのは〈この私(悪魔ちゃん)〉のこと。他の人にも「私」というのがあって、でも「わたし」は唯一無二の存在。
    > ひょっとしたらわたしが言う「わたし」のようなものがパニチェさんの〈私〉のことなのかな?

    > わたしの言う「私」というのは、すべての人、あるいは一般的なもの。
    > これはわたしが客観的に見てる、っていうことになるのかも?
    > こういう意味での「私」についてメビウスでいっぱい書いたけどだれも関心なかったみたい。だからもうあまり言わないことにしてる。そのあとわたしに問題だったのは、「わたし」である、と言えるのはなにによってなのかしらって。でもいまのところこれについてもおおよそ見当がついてきてるよ。

    > 上手に表現できないけど、こ〜んな感じ。雰囲気で伝わればわたしとしてはうれしい。

    それなら「私」の表記は、わしと悪魔さんと同じやね。
    〈私〉と「わたし」がひょっとすると悪魔さんも上記で疑問形にはなってるけど、一緒の可能性もあるね。
    でも一緒と言っても、悪魔さんも指摘しているように唯一無二だから同一ではありえないってことなんだけど。。。
    この辺が言葉として伝えられない、あるいは表現できないところなんだけど。

引用返信/返信 削除キー/
■6587 / inTopicNo.9)  Re[57]: 「私」について
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/13(Sun) 17:04:20)
    バニチェさん
    >もしよかったら悪魔さんが言うところの「私」を教えて下さい。<
    あらやだ〜。な〜んか紳士的。わたし、他人に教えるものなんてもってないよ。
    わたしのは自問自答。言いかえると〈問いかけ〉。

    >他者はともかく(厳密に言えば他者のことは知りようがありません)、〈私〉に関しては他者も含めて他の如何なる事物や現象などなどと存在の在り様が違いますし、これ以上確たる存在はない、言い換えれば存在そのものと言ってもいいと思います。<
    わたしもこんな感じなのかな?

    わたしのばあい、「わたし」と「私」を区別しています。「わたし」というのは〈この私(悪魔ちゃん)〉のこと。他の人にも「私」というのがあって、でも「わたし」は唯一無二の存在。
    ひょっとしたらわたしが言う「わたし」のようなものがパニチェさんの〈私〉のことなのかな?

    わたしの言う「私」というのは、すべての人、あるいは一般的なもの。
    これはわたしが客観的に見てる、っていうことになるのかも?
    こういう意味での「私」についてメビウスでいっぱい書いたけどだれも関心なかったみたい。だからもうあまり言わないことにしてる。そのあとわたしに問題だったのは、「わたし」である、と言えるのはなにによってなのかしらって。でもいまのところこれについてもおおよそ見当がついてきてるよ。

    上手に表現できないけど、こ〜んな感じ。雰囲気で伝わればわたしとしてはうれしい。

引用返信/返信 削除キー/
■6567 / inTopicNo.10)  Re[56]: 哲学の第一原理
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/13(Sun) 08:00:10)
    2020/09/13(Sun) 08:13:13 編集(投稿者)

    No6549に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > バニチェさま
    > >ウィトゲンシュタインが「語りえないことについては沈黙しなければならない」という言葉によって暗に浮き上がらせたもののひとつ<としての〈私〉でいいのかしら?
    > いずれにせよ、〈語りえないもの〉ではあるが、存在する、ということ、存在するけど、現表できない、っていうことでいい?

    はい。

    > だとしたら、〈存在する〉ってうことがどういうことなのか?が問題じゃない?

    以下は全て説明していては長くなるので結論だけ返信します。
    興味をひくものであれば異論、反論、質問下さい。

    他者はともかく(厳密に言えば他者のことは知りようがありません)、〈私〉に関しては他者も含めて他の如何なる事物や現象などなどと存在の在り様が違いますし、これ以上確たる存在はない、言い換えれば存在そのものと言ってもいいと思います。デカルトの第一原理、ハデッガーの現存在、フッサール現象学で言うところの直接経験の主体ともかぶりますが、これらの意味するところも真の意味では万人が有するような同じものではなく、唯一無二で本来は言葉の網の目をすり抜けしまう〈私〉のことだと思います。

    minoriさんと悪魔さんのレス交換もロムはしていますが、もしよかったら悪魔さんが言うところの「私」を教えて下さい。

引用返信/返信 削除キー/
■6549 / inTopicNo.11)  Re[55]: 哲学の第一原理
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/12(Sat) 19:16:18)
    バニチェさま
    >ウィトゲンシュタインが「語りえないことについては沈黙しなければならない」という言葉によって暗に浮き上がらせたもののひとつ<としての〈私〉でいいのかしら?
    いずれにせよ、〈語りえないもの〉ではあるが、存在する、ということ、存在するけど、現表できない、っていうことでいい?
    だとしたら、〈存在する〉ってうことがどういうことなのか?が問題じゃない?

引用返信/返信 削除キー/
■6503 / inTopicNo.12)  哲学の第一原理
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/12(Sat) 04:15:18)
    2020/09/12(Sat) 04:30:47 編集(投稿者)

    先言の「私」
    仏教で言うところの言語道断や不立文字、勝義諦や拈華微笑の指し示すものとは、言葉によって生じた「私」が滅却し、言葉に先んじて存在していた、言い換えれば存在そのものである「私」のことであり、ウィトゲンシュタインが「語りえないことについては沈黙しなければならない」という言葉によって暗に浮き上がらせたもののひとつでもある。

    比類なき「私」
    そして言葉として表現不可能な「私」は他の如何なる物や人が並び立つことのない独我論的(独在論的)な地点に位置する唯一無二の存在でもある。

    〈私〉
    上記の二つの性質を有する「私」は言葉の根本的な機能であるラベリングによる一般化でもって変質してしまう存在であり、万人が一人称として共通して使用可能である「私」とはかけ離れたものであり、他者に伝える際に永井均氏の言う「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」によって削げ落ちてしまうため「私」と区別するために〈私〉と表記する。

    上記の三つの性質によって「比類なき先言の〈私〉」と表記されるのが「私」の本質である。

    〈私〉が有覆無記なら唯識で説かれるところの輪廻の主体でもある阿頼耶識だろうし、無覆無記なら輪廻の主体ではない真我だろう。
    この何れであるかは今のところパニチェには分からず、ペンディングあるいは探究の途上である。

    〈私〉が認識する世界が唯物論として語られる対象であったとしても、世界内には存在せず世界の極地(そこから世界が開ける特異点)に位置する〈私〉は唯物論の範疇には属さないことは確かであり、この意味において電脳では再現不可能、さらに言えば科学の定義にかかわる再現性や計測可能性、自然の斉一性原理の網の目をすり抜ける存在でもある。

    非科学的ではあるが決してカルト的ではない、気付こうが気付かまいが、きっと万人が同一ではないが、そうであろうところの哲学の第一原理である。

引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -