| パニチェさん、レスありがとうございます。
>>なるほど。言葉を覚えることというのは、誰かに自分の考え、思いを伝えるための道具であるだけでなく、記憶を形成したりそれによって自己同一性が担保され、自意識が作られるという役目も果たしているのですね。 > > パニチェはそのように考えています。 > 脳科学的にはエピソード記憶(思い出)って映像的に保管されているのかと思いきや、実は言語的に保管されていて、思い出す度に脳内で言葉から映像に変換しており、だから色褪せていくらしいです。
そうなんですか。今度、自分自身の場合どうか、できたら観察してみますね。
> さらに田秋さんへの返信でもカキコしたんですが、私たちは進化の途上である能力を獲得することによってある能力を失っているんだと思います。 > 言葉は他者とのコミニュケーションツールとしてはめちゃ便利ですが、その反面、世界や時間を分断化というかブツ切りにしてしまう。メリットが大きい分、デメリットもでかい。
そうですね。それはありますよね。
> 生体は呼吸や新陳代謝してるし、身体や物体、気体や液体などの最小単位である量子は空間に広がってる波であって境界が明確な粒子ではない。私たちの物体としての身体は空間的にも独立した存在ではないにもかかわらず、言葉によるラベリング効果でもって周囲の物や人との自他の境界認識を強め、バラバラにしてしまう。
ええ、そういうことなんですよね。
>さらに最も身近で最も自明な唯一無二性も失われる。それは属性でしかない個性を謳う「世界にひとつだけの花」どころではない、人間の尊厳にもかかわる存在論的な対象を隠してしまう。
〈私〉について、パニチェさんに導いていただいて理解はできたと思うのですね。 ただ、その唯一無二性であるということがなぜ大切なのか、という点においては、minori自身としてはわからないんですよね。 パニチェさんにとってそれは大切なのだというのはとてもわかります。 そこで質問なのですが。 なぜそこまで唯一無二性の独我論的〈私〉というのがそもそも大切なのですか? なぜそこが人間の尊厳に関わるのでしょう? ケチをつけようとしているのではなく、純粋にわからないんです。
> 時間も今しかないのに過去や未来などとブツ切りにするため、過去への後悔や未来への不安という苦が生じる。動物は多分、常に今に生きている(道元禅師の“而今(にこん:今に生きる)”)わけで(ある種の予測はできるらしいが)、そういう意味では涅槃なんだと思います。
人間から見るとたしかにそのように感じられますよね。
> ウィトゲンシュタインの行った大仕事は独我論的な世界と、言語で言語の限界を浮き上がらせたことです。 > 〈私〉に関して言えば言語的には無色透明なんですが、その周辺の言語化できるところを表現することで浮き上がってきます。この言語と〈私〉の関係は、錯視図形でよく出てくるカニッツァの三角形(添付画像)がうまく表していることに気付きました。 > > 今のminoriさんなら以下のウィトゲンシュタインの言葉もしっくりくるんじゃないですかねぇ〜。 > > 『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より』
何度か繰り返し読み、考えもしたのですが、ヴィトゲンシュタインが何を言いたいのか、わかりませんでした。
「なぜ私は他の誰かではなく私なのだろう」という問題意識をこれまで持ったことのないminoriなので、こうした問題意識を自分自身の問題意識とはしにくいところがあるようです。 ですので、ヴィトゲンシュタインが何を言いたかったのか、という点については今は、置いておいていただいてこちらとしては大丈夫です。
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