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■4798 / inTopicNo.61)  Re[15]: カニッツァの三角形>minoriさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/07/31(Fri) 14:04:01)
    パニチェさん、レスありがとうございます。


    >>なるほど。言葉を覚えることというのは、誰かに自分の考え、思いを伝えるための道具であるだけでなく、記憶を形成したりそれによって自己同一性が担保され、自意識が作られるという役目も果たしているのですね。
    >
    > パニチェはそのように考えています。
    > 脳科学的にはエピソード記憶(思い出)って映像的に保管されているのかと思いきや、実は言語的に保管されていて、思い出す度に脳内で言葉から映像に変換しており、だから色褪せていくらしいです。

    そうなんですか。今度、自分自身の場合どうか、できたら観察してみますね。


    > さらに田秋さんへの返信でもカキコしたんですが、私たちは進化の途上である能力を獲得することによってある能力を失っているんだと思います。
    > 言葉は他者とのコミニュケーションツールとしてはめちゃ便利ですが、その反面、世界や時間を分断化というかブツ切りにしてしまう。メリットが大きい分、デメリットもでかい。

    そうですね。それはありますよね。

    > 生体は呼吸や新陳代謝してるし、身体や物体、気体や液体などの最小単位である量子は空間に広がってる波であって境界が明確な粒子ではない。私たちの物体としての身体は空間的にも独立した存在ではないにもかかわらず、言葉によるラベリング効果でもって周囲の物や人との自他の境界認識を強め、バラバラにしてしまう。

    ええ、そういうことなんですよね。

    >さらに最も身近で最も自明な唯一無二性も失われる。それは属性でしかない個性を謳う「世界にひとつだけの花」どころではない、人間の尊厳にもかかわる存在論的な対象を隠してしまう。

    〈私〉について、パニチェさんに導いていただいて理解はできたと思うのですね。
    ただ、その唯一無二性であるということがなぜ大切なのか、という点においては、minori自身としてはわからないんですよね。
    パニチェさんにとってそれは大切なのだというのはとてもわかります。
    そこで質問なのですが。
    なぜそこまで唯一無二性の独我論的〈私〉というのがそもそも大切なのですか?
    なぜそこが人間の尊厳に関わるのでしょう?
    ケチをつけようとしているのではなく、純粋にわからないんです。


    > 時間も今しかないのに過去や未来などとブツ切りにするため、過去への後悔や未来への不安という苦が生じる。動物は多分、常に今に生きている(道元禅師の“而今(にこん:今に生きる)”)わけで(ある種の予測はできるらしいが)、そういう意味では涅槃なんだと思います。

    人間から見るとたしかにそのように感じられますよね。

    > ウィトゲンシュタインの行った大仕事は独我論的な世界と、言語で言語の限界を浮き上がらせたことです。
    > 〈私〉に関して言えば言語的には無色透明なんですが、その周辺の言語化できるところを表現することで浮き上がってきます。この言語と〈私〉の関係は、錯視図形でよく出てくるカニッツァの三角形(添付画像)がうまく表していることに気付きました。
    >
    > 今のminoriさんなら以下のウィトゲンシュタインの言葉もしっくりくるんじゃないですかねぇ〜。
    >
    > 『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より』

    何度か繰り返し読み、考えもしたのですが、ヴィトゲンシュタインが何を言いたいのか、わかりませんでした。

    「なぜ私は他の誰かではなく私なのだろう」という問題意識をこれまで持ったことのないminoriなので、こうした問題意識を自分自身の問題意識とはしにくいところがあるようです。
    ですので、ヴィトゲンシュタインが何を言いたかったのか、という点については今は、置いておいていただいてこちらとしては大丈夫です。
引用返信/返信 削除キー/
■4797 / inTopicNo.62)  Re[19]: 第五図と第四図への二重帰属
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/31(Fri) 12:59:53)
    レスありがとうございます。

    良道氏のテーラワーダ体験については、同書第一章で語られていますね。p46とか。

    永井哲学と禅宗の相性はどうかについては、曹洞宗で永井氏と話しがあうのは一照氏と良道氏が少数派かなという印象をもっています。良道氏は安泰寺では異端派で、一照氏は安泰寺から外れてはいませんが、それを超えている国際的な仏教知識人ですね。グーグル本社でマインドフルネスの講習をしたりしています。安泰寺の伝統に原理主義的につながるのはネルケ氏だと思いますが、永井哲学に真っ向から反対しているように見受けられます。

    ご存知だと思いますが、曹洞宗は見性にあまり重きを置きませんね。とくに安泰寺は。見性を求めるのは臨済宗の影響を受けている曹洞宗ですね。

    あと、永井氏は地橋秀雄さんからウィパッサナーの指導を受けていて、瞑想の師と呼べるのは地橋さんだけだと語っていました。ちょっと地橋さんのツィッターをみてみると、
    慈悲の瞑想について熱く語る書き込みは続いていて、驚かされます。
引用返信/返信 削除キー/
■4795 / inTopicNo.63)  Re[16]: 「私」について 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/31(Fri) 11:52:21)
    2020/07/31(Fri) 16:53:55 編集(投稿者)
    2020/07/31(Fri) 12:00:04 編集(投稿者)

    No4777に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    横からすみません。

    > わたしの名前、年齢、住所って、他者の私。
    > わたしのじゃない。

    他者にとっての・他者から見たあなた(わたし)というような意味? 他者があなた(わたし)を特定したり呼んだりするために使う。

    それと違って、名前や住所などまったく関係なく、私にはこれが私だと分かる。そういう私がいる。


引用返信/返信 削除キー/
■4794 / inTopicNo.64)  Re[18]: 第五図と第四図への二重帰属
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/31(Fri) 10:55:17)
    2020/07/31(Fri) 11:26:10 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。
    私も私なりの結論が見えてきたこともあり、要点だけ返信させてもらいます。

    No4792に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 良道氏の体験が禅宗の三昧や見性と際立った違いをみせるのは、第五図にいながら第五図の主体としての意識を保てるというところです。これは彼がテーラワーダで修行したからでしょう。

    これはまるで明晰夢のような悟りなんですね。
    私はテーラワーダや良道さんの見性は知りません。
    曹洞宗は耳学問(覚者との対話)や目学問(書籍からの知識)で多少知っている程度で、言うまでもなく体得していません。

    第五図がテラワーダや、禅宗とテーラワーダに通底する良道さんの見性であるとするなら、〈私〉とは相性が悪いかもしれません。第五図が曹洞宗の印可として認められるところの見性であれば〈私〉とは上記よりも相性がいいように思います。

    永井さんの〈私〉とパニチェの〈私〉が同じような(厳密には同じではありえないのですが)ものであるかどうかの確証は持てないにしても、「〈仏教3.0〉を哲学するU」の第五図として語られる〈私〉に限定すれば違和感がないことからして、この書籍のこの箇所については同じようなものと見なすことができます。
    ただ曹洞宗で印可の対象となる境地と〈私〉が同じようなものであるかどうかは上記ほどの確証がないのでペンディングです。

    > 永井氏は第四図と第五図は境界が重なる、同じという言い方をしていたと記憶しますが、良道もそうだと思います。同じ一枚のコインの裏表。良道氏の二重構造もこの意味でしょう。第五図の中にしか人間の場所はない。第五図にいることは、第四図にいること。第四図にいることは第五図にいること。ほとんどの人は第四図の中だけだと思い込んでいるというか、言語や他人や共同体に洗脳されているというか。哲学的思索で第五図へというのが永井氏で、瞑想で第五のへというのが良道や一照氏だと思います。

    同意です。
    あと、No4747でも述べましたが、やはり見性体験や臨死体験と呼ばれるものは、体験する人の禅定や瞑想の手法や師家からの指導、宗教観が反映されるのではないか、という可能性が強まりました(覚者は否定するとは思いますが)。
    もちろん、宗派ごとの見性は野弧禅や魔境とは区別される境地であるとは思います。

    第五図に慈悲を組み込んでも超越論に収まるかどうかについては、やはりknowing itselfさんとは見解を異にしますが、私なりには良道さんの見性と〈私〉との差異は見えてきたような気がします。
引用返信/返信 削除キー/
■4792 / inTopicNo.65)  第五図と第四図への二重帰属
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/31(Fri) 09:59:33)
    永井氏は第四図と第五図は境界が重なる、同じという言い方をしていたと記憶しますが、良道もそうだと思います。同じ一枚のコインの裏表。良道氏の二重構造もこの意味でしょう。第五図の中にしか人間の場所はない。第五図にいることは、第四図にいること。第四図にいることは第五図にいること。ほとんどの人は第四図の中だけだと思い込んでいるというか、言語や他人や共同体に洗脳されているというか。哲学的思索で第五図へというのが永井氏で、瞑想で第五のへというのが良道や一照氏だと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■4791 / inTopicNo.66)  Re[10]: 「〈仏教3.0〉を哲学するU」3
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/31(Fri) 09:39:59)
    レスありがとうございます。例によってピックアップして返答しますね。すべてにコメントを加えたらあまりに膨大になりますので。

    >>前提としての永井氏によるp153あたりの文ですが、ここで既に納得できないのですね。
    >
    >>例えば、
    >>「神さまやあの世のように信仰というものを必要とせず、誰もがそれは在ると認めることができる、認めざるをえない種類の超越なのです。だから、これはいわば超越した超越ではなく組み込まれた超越なので、そういうあり方を超越的ではなく超越論的と言います」
    >
    > ここの言い回しはパニチェもよく分からないのですが、以下のように解釈しました。
    > 「〈私〉は神やあの世のように直接その存在を確認できない超越的存在ではなく、誰もがそれは在ると認めることができる、認めざるをえないが、直接経験の対象とする世界内にはない。世界内から超越した〈私〉からさらに超越した神やあの世のような超越の種類ではなく、世界内からは超越しているが〈私〉の存在は認めることができる組み込まれた超越なので、このあり方を超越論的と言います」


    この解釈でもいいと思いますが、この解釈でも良道氏は超越論的そのものだといえます。彼も〈私〉からさらに超越した何かを想定しているわけではありません。


    > 良道さんの慈悲のある〈私〉は(憎悪ある〈私〉でもいいわけですが)、単なる存在ではないので、超越論的な存在を超える(超越的)ということではないでしょうか。
    > さらに、仮に三昧が自他の境界認識が消失した境地であるなら、慈悲を感じるのは三昧から戻った(睡眠で言えば目覚めてから眠っていたことが分かるのと同じ)後、つまり第五図の四角内か第四図内でないと、矛盾します。この論理を飛び越えるなら超越だろうということです。

    良道氏の体験が禅宗の三昧や見性と際立った違いをみせるのは、第五図にいながら第五図の主体としての意識を保てるというところです。これは彼がテーラワーダで修行したからでしょう。

    > 多分、永井さんと一照さんの超越的と超越論的は上記の定義で一致していると思います。(永井さんP.170〜P.171、P.242 ・ 一照さんP.172〜P173)
    > P.170で永井さんが良道さんがプラトン的と言っている理由は、良道さんが超越論的なことが分かったうえで超越論的なもの(慈悲)が見えてくるという背後世界やイデアのようなものを設定している

    良道氏は背後世界やイデアは拒否すると思います。世界内からの超越の果てが〈私〉で、その〈私〉こそが自己の唯一のアイデンティティーで、それをありありとリアルに体験するのが仏教だという立場でしょう。

    > ■No4769に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>同書p171の終わりからp174まで、表面的な言葉使いで対立するように見えるほどには三人の対立は小さい印象です。良道氏は二重構造をとるから、上が下に命令指図するとか、下が上を仰ぎ見るとかではまったくありません。

    > 見性体験が不二の体験であるなら、そこに二重構造を想定するのは矛盾します。
    > だから一照さんが言うように見性体験した〈私〉が見性体験後に「私」に感じさせることでしょ(P.172〜P.173)、と指摘しているのだと思います。

    前の方でも書きましたが、良道氏は見性体験とは微妙にずれます。彼は曹洞宗を捨ててテーラワーダで四年間の大リトリートに参加して、その体験から禅宗とテーラワーダに通底する世界観に至ったようです。二重構造こそが彼が一番言いたいところです。

    > ここは異論があるところです。先にも述べましたが何故「憎悪」ではなく、「慈悲」なのか?それは既にある種の価値観、アカベーの如く“善的な価値”が混在していて、それを存在様相に加味することは超越だろうと言うことです。

    これは違うと思います。良道氏によると、体験中は目をつぶっても圧倒的な人工太陽が輝いて、自他の境界がなくなる。すべてが暖かい光に満たされる。しかもそれを意識できている状態。慈悲の語にこだわる必要はないですが、この状態から憎悪を引き出す方が不自然というか、屁理屈に近いようにも思えます。



引用返信/返信 削除キー/
■4790 / inTopicNo.67)  「〈仏教3.0〉を哲学するU」3
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/31(Fri) 08:40:25)
    2020/07/31(Fri) 09:59:53 編集(投稿者)

    おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    ここまで一旦、返信しますね。

    No4757に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 前提としての永井氏によるp153あたりの文ですが、ここで既に納得できないのですね。

    > 例えば、
    > 「神さまやあの世のように信仰というものを必要とせず、誰もがそれは在ると認めることができる、認めざるをえない種類の超越なのです。だから、これはいわば超越した超越ではなく組み込まれた超越なので、そういうあり方を超越的ではなく超越論的と言います」

    ここの言い回しはパニチェもよく分からないのですが、以下のように解釈しました。
    「〈私〉は神やあの世のように直接その存在を確認できない超越的存在ではなく、誰もがそれは在ると認めることができる、認めざるをえないが、直接経験の対象とする世界内にはない。世界内から超越した〈私〉からさらに超越した神やあの世のような超越の種類ではなく、世界内からは超越しているが〈私〉の存在は認めることができる組み込まれた超越なので、このあり方を超越論的と言います」

    > 永井氏のこの定義だと良道氏は超越論的にあたるという当てはめは十分ありえます。私見ではこちらが正しいです。

    良道さんの慈悲のある〈私〉は(憎悪ある〈私〉でもいいわけですが)、単なる存在ではないので、超越論的な存在を超える(超越的)ということではないでしょうか。
    さらに、仮に三昧が自他の境界認識が消失した境地であるなら、慈悲を感じるのは三昧から戻った(睡眠で言えば目覚めてから眠っていたことが分かるのと同じ)後、つまり第五図の四角内か第四図内でないと、矛盾します。この論理を飛び越えるなら超越だろうということです。

    > それ以前にそもそも、おそらく一照氏も良道氏も、超越的か超越論的かという二択に死活的な意義を与えてはいないはずです。永井氏からいきなりそれを振られても、その二択を受け入れる必要はまったくないと思うんです。超越的か超越論的かという「概念」に振り回されて互いの真実から離れているようにみえます。

    第五図に慈悲を認めるかどうかはP.171から本格的に始まりますが、それ以前のP.60やP.99、P.142でも二人は議論を展開していて、この書籍ではずっと平行線のままです。
    そこに超越か超越論的かを持ち出したのは永井さんですが、第五図に慈悲を認めるかどうかの議論の主役は一照さんと良道さんです。

    多分、永井さんと一照さんの超越的と超越論的は上記の定義で一致していると思います。(永井さんP.170〜P.171、P.242 ・ 一照さんP.172〜P173)
    P.170で永井さんが良道さんがプラトン的と言っている理由は、良道さんが超越論的なことが分かったうえで超越論的なもの(慈悲)が見えてくるという背後世界やイデアのようなものを設定しているためであり、これに対して永井さんが自身のことをカント的と言っているのは第五図、つまり〈私〉がカントの言うところの(ここで述べられているところのカント)超越論的存在を越えるものではないからだと思います。


    No4769に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 同書p171の終わりからp174まで、表面的な言葉使いで対立するように見えるほどには三人の対立は小さい印象です。良道氏は二重構造をとるから、上が下に命令指図するとか、下が上を仰ぎ見るとかではまったくありません。

    見性体験が不二の体験であるなら、そこに二重構造を想定するのは矛盾します。
    だから一照さんが言うように見性体験した〈私〉が見性体験後に「私」に感じさせることでしょ(P.172〜P.173)、と指摘しているのだと思います。

    > 永井氏は「ただ見ているだけ、観察しているだけで、それ以外のことが一切なければ、それは超越論的ですよね。良道さんの場合は、それだけではすまない、それ以降の仕事があるんですよね?」と質問しているが、この質問自体が良道説を誤解しています。第五図的主体が観察以降に第四図に降りてきて成り代わって仕事するなどということはありません。あくまで二重構造です。

    ここは異論があるところです。先にも述べましたが何故「憎悪」ではなく、「慈悲」なのか?それは既にある種の価値観、アカベーの如く“善的な価値”が混在していて、それを存在様相に加味することは超越だろうと言うことです。


    No4771に返信(knowing itselfさんの記事)
    > カントについて先回りして一言いっておくと、
    > 永井哲学における<私>と「私」を<自由>と「自由」に置き換えたものがカント哲学だといえば、カント哲学にまつわる色々なことがわかってくるように思います。
    > 永井哲学はこればっかりの金太郎飴という感じですが、難解なカント哲学体系の中心軸は、<自由>と「自由」でしょう。永井哲学が超越論的であれば、カント哲学も当然、超越論的ということになる。

    すみません。ここはまだ分かりません。


    No4788に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>同じく永井さんも「そこに慈悲とかを入れるのであれば、超越論的では足りないんですP.172」と述べており、私はこれに同意です。
    >> 〈私〉はただそこにあるだけです。

    > 〈私〉はただそこにあるだけですなのは、良道氏もまったく同じだと思います。その中に無理やりに慈悲を、教義や信仰を根拠に注入しているわけではありません。ただあるしかない〈私〉を慈悲と呼んでいるだけでしょう。たとえていえば、圧倒的な太陽光線だけがそこにあれば、それを慈悲そのものと名づけても問題はないようなものです。慈悲を入れているのはおかしいというのは、太陽という漢字を当てるのがおかしいというようなものです。少なくとも暗黒があるだけとは違います。

    これも先の返信と重複しますが「憎悪」ではなく「慈悲」なんですから、意味付けがなされてます。
    他者の〈〈私〉〉も未解決の不可知です。良道さんの見性体験に慈悲が伴っているとしても、それは超越論的な存在である〈私〉からすればさらに超越することであって、これを理解することは〈〈私〉〉以上に原理的に無理な話だと思います。

    > 永井氏への疑問は、想像したり概念的に納得するのでなく、〈私〉の現前だけはリアルなのであれば、慈悲と切り離すことに拘ることもないのではと。牢獄に閉じ込められているリアルさだけならともかく。

    ここはP.263で一照さんや永井さんも述べている通り「哲学者は宗教者と違って、わざわざ、不幸になってもいいから騙されないで、真実を追求する覚悟のある人。(一照さん)」「そうです。もともと幸福や善よりも真理のほうが好きなので、それはなんでもないです。(永井さん)」

    〈私〉の探究に関してはパニチェも同意です。
    〈私〉は認識論ではなくて、あくまでも存在論の範疇なんです。
    だから言語的には無色透明だし、今、ここに、こうして、ただ存在するだけです。
    何の価値や意味もないし、何もしませんし、できません。^^
引用返信/返信 削除キー/
■4789 / inTopicNo.68)  カニッツァの三角形>minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/31(Fri) 07:43:37)
    2020/07/31(Fri) 08:14:04 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。
    ここから先は蛇足で通常のレス交換と思って下さい。
    だからスルーしてもらってもいいし、異論。反論・疑問・質問も歓迎です。

    No4785に返信(minoriさんの記事)
    > なるほど。言葉を覚えることというのは、誰かに自分の考え、思いを伝えるための道具であるだけでなく、記憶を形成したりそれによって自己同一性が担保され、自意識が作られるという役目も果たしているのですね。

    パニチェはそのように考えています。
    脳科学的にはエピソード記憶(思い出)って映像的に保管されているのかと思いきや、実は言語的に保管されていて、思い出す度に脳内で言葉から映像に変換しており、だから色褪せていくらしいです。

    さらに田秋さんへの返信でもカキコしたんですが、私たちは進化の途上である能力を獲得することによってある能力を失っているんだと思います。
    言葉は他者とのコミニュケーションツールとしてはめちゃ便利ですが、その反面、世界や時間を分断化というかブツ切りにしてしまう。メリットが大きい分、デメリットもでかい。

    生体は呼吸や新陳代謝してるし、身体や物体、気体や液体などの最小単位である量子は空間に広がってる波であって境界が明確な粒子ではない。私たちの物体としての身体は空間的にも独立した存在ではないにもかかわらず、言葉によるラベリング効果でもって周囲の物や人との自他の境界認識を強め、バラバラにしてしまう。さらに最も身近で最も自明な唯一無二性も失われる。それは属性でしかない個性を謳う「世界にひとつだけの花」どころではない、人間の尊厳にもかかわる存在論的な対象を隠してしまう。

    時間も今しかないのに過去や未来などとブツ切りにするため、過去への後悔や未来への不安という苦が生じる。動物は多分、常に今に生きている(道元禅師の“而今(にこん:今に生きる)”)わけで(ある種の予測はできるらしいが)、そういう意味では涅槃なんだと思います。

    ウィトゲンシュタインの行った大仕事は独我論的な世界と、言語で言語の限界を浮き上がらせたことです。
    〈私〉に関して言えば言語的には無色透明なんですが、その周辺の言語化できるところを表現することで浮き上がってきます。この言語と〈私〉の関係は、錯視図形でよく出てくるカニッツァの三角形(添付画像)がうまく表していることに気付きました。

    今のminoriさんなら以下のウィトゲンシュタインの言葉もしっくりくるんじゃないですかねぇ〜。

    『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より』

    > 実はヤフーでも、パニチェさんが〈私〉についてのお話をどなたかとしてらしたのは、ちらっと拝見していたのですが、その時には難しくてさっぱり理解できなかったのです。

    ロムしてもらってたこともあるんですね。ありがとうございます。

    > ですので、そういう意味でも理解できたことを嬉しく感じています。

    それはよかったです。^^

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引用返信/返信 削除キー/
■4788 / inTopicNo.69)  Re[8]: レスその2
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/31(Fri) 07:34:06)
    おはようございます

    >同じく永井さんも「そこに慈悲とかを入れるのであれば、超越論的では足りないんですP.172」と述べており、私はこれに同意です。
    〈私〉はただそこにあるだけです。

    〈私〉はただそこにあるだけですなのは、良道氏もまったく同じだと思います。その中に無理やりに慈悲を、教義や信仰を根拠に注入しているわけではありません。ただあるしかない〈私〉を慈悲と呼んでいるだけでしょう。たとえていえば、圧倒的な太陽光線だけがそこにあれば、それを慈悲そのものと名づけても問題はないようなものです。慈悲を入れているのはおかしいというのは、太陽という漢字を当てるのがおかしいというようなものです。少なくとも暗黒があるだけとは違います。

    永井氏への疑問は、想像したり概念的に納得するのでなく、〈私〉の現前だけはリアルなのであれば、慈悲と切り離すことに拘ることもないのではと。牢獄に閉じ込められているリアルさだけならともかく。
引用返信/返信 削除キー/
■4787 / inTopicNo.70)  Re[16]: 「私」について
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/31(Fri) 06:01:11)
    悪魔ちゃん 横レス失礼します

    > いわゆる大人になった「私」に対して、幼少のころにはそのはような「私」というものが存在しているのかな?っていうように思っているの?
    >
    > だとしたら、わたしそういう見方に賛成。
    > 「私」というのは発生するもの、って、いまのところわたし見てます。
    >
    > あれ?わたし、場違いなこと言ってる?だとしたら、ごめん。
    >
    > あ、「私」について、もうちょっと浮かんだのがあるんだけど、ついでに。
    >
    > わたしの名前、年齢、住所って、他者の私。
    > わたしのじゃない。

    <私>と<今>に光りをあてる哲学は、実はメルロポンティの哲学と近いんじゃないかと思いました。使う用語、言い回しはまったく違いますが。
引用返信/返信 削除キー/
■4786 / inTopicNo.71)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/31(Fri) 04:36:14)
    悪魔ちゃん、こんにちは。


    > minoriさま、
    > いわゆる大人になった「私」に対して、幼少のころにはそのはような「私」というものが存在しているのかな?っていうように思っているの?
    >
    > だとしたら、わたしそういう見方に賛成。
    > 「私」というのは発生するもの、って、いまのところわたし見てます。

    ・・・
    > 幼少の子どもがはっきりと独在的私である〈私〉を自覚しているとは思えません。
    > しかし、幼少の子どもが自覚しているいないに関わらず、その子自身が〈私〉であることには変わりはないと思います。
    ・・・
      ↑ このような話をしてたのです。


    〈私〉というのは、〈 〉の中に入ってる 私 になるんだけど。
    なぜ、〈 〉に入れて 私 とは差別化されているかというと。

    〈私〉というのは、パニチェさんの文章をお借りして・・・
    > 言語化不可能なことと、言語習得に先んじて存在すること、独在的(私秘性を伴い、何人も何物も並び立つことのできない、そこから世界が開闢する地点であるところのマッハ的光景の手前に独我論的に存在する唯一無二性)な存在を「比類なき先言の<私> <

    ということになるからです。

    > <内の内容を詳しく説明していくことは、minoriには無理かな。。。
    なにしろ、パニチェさんのご説明により、理解できたばかりなのと多岐に渡る説明が必要となり、minoriにはその能力がない、ということで。

    > あ、「私」について、もうちょっと浮かんだのがあるんだけど、ついでに。
    >
    > わたしの名前、年齢、住所って、他者の私。
    > わたしのじゃない。


    名前、年齢、住所、そうしたものでは、〈 〉付きの〈私〉は、言い表すことはできない、ということ、つまり・・・
    悪魔ちゃんという独我論的唯一無二性をもつ存在である〈私〉は、名前、住所、年齢などの属性をいくら連ねていっても、言語で表現することは不可能だという話になります。

    これぐらいしか言えないです。。。 ごめんね。

    悪魔ちゃんが言いたかった内容と私が書いた内容がリンクしてたらいいんだけど。

引用返信/返信 削除キー/
■4785 / inTopicNo.72)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/31(Fri) 04:07:37)
    パニチェさん、レスありがとうございました。

    >>>では、再び質問です。
    >
    >>>よく言われる物心がつくとはどういう状態だと思いますか?
    >
    >>物心がつく時期というのは、自意識が芽生えてくる頃に該当するのではないでしょうか。
    >
    > 同意です。以下は〈私〉に関する公案とは無関係で単なるパニチェの考えです。
    > 言葉を覚えることによってエピソード記憶(言語的記憶)が可能となり、思い出が蓄積されるようになる。
    > 記憶によって自己同一性が担保されることで自意識、所謂物心がつくのだと思います。

    なるほど。言葉を覚えることというのは、誰かに自分の考え、思いを伝えるための道具であるだけでなく、記憶を形成したりそれによって自己同一性が担保され、自意識が作られるという役目も果たしているのですね。


    >>>物心がついた私と〈私〉との関係はどういうものでしょうか?
    >
    >>幼少の子どもがはっきりと独在的私である〈私〉を自覚しているとは思えません。
    >>しかし、幼少の子どもが自覚しているいないに関わらず、その子自身が〈私〉であることには変わりはないと思います。
    >
    > 素晴らしい!もう〈私〉を理解されてますね。
    > その通りで、言語を習得する以前、自意識が生じる以前に〈私〉が無ければ物心をつく主体が不在となりますから、子自身が〈私〉であることに気づいている、気づいていないに関わらず〈私〉は存在します。
    > これは大人にも言えることで、その人が〈私〉を理解してようが、理解してまいが、独在性的な〈〈私〉〉であることは多分、揺るぎのない事実だと思います。


    よかった。^^  最初の頃に、「minoriさん自身のこととして理解できるようになる。」と言われて、もう一つぴんとこなかったのですが、ほんとにそのようになりました。


    > 言語化不可能なことと、言語習得に先んじて存在すること、独在的(私秘性を伴い、何人も何物も並び立つことのできない、そこから世界が開闢する地点であるところのマッハ的光景の手前に独我論的に存在する唯一無二性)な存在を「比類なき先言の<私>」と、今から19年ほど前に掲示板の友人であるKIDAMASAさんに名づけてもらいました。

    そうでしたか。^^

    > ここが9合目です。お疲れ様でした。
    > 今のminoriさんなら「〈仏教3.0〉を哲学する U」は、以前よりも面白く読めるかもしれません。

    パニチェさんにはもう心から感謝です。^^
    お付き合いいただきありがとうございました。
    『バージョンU 』もそうですね、試してみようかな。


    > 今後も何なりと疑問や質問、異論、反論があればいつでもレス下さい。

    はい、ありがとうございます。

    > 今日はパニチェにとっても記念すべき日となりました。
    > ありがとうございました。

    実はヤフーでも、パニチェさんが〈私〉についてのお話をどなたかとしてらしたのは、ちらっと拝見していたのですが、その時には難しくてさっぱり理解できなかったのです。
    ですので、そういう意味でも理解できたことを嬉しく感じています。
引用返信/返信 削除キー/

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