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■45413 / inTopicNo.1)  Re[27]: 無味無臭透明な芯
  
□投稿者/ pipit -(2026/02/23(Mon) 16:21:28)
    2026/02/23(Mon) 17:16:32 編集(投稿者)

    パニチェさんこんにちは、レスありがとうございます(^▽^)/

    No45408
    > 私は以前は“私”を「束」という表現を使ってました。
    > 立場や役割、性別や個性などなど、さまざまな細い1本1本が集まった束。
    >
    > 父親、夫、ビジネスマン、男、友人、短気などなど。。。
    >
    > でもその1本1本は他者にも当てはまる言語化可能なものであって〈私〉そのものではない。
    > もしこの束に〈私〉のような芯がないとすれば仏教の無我と完全に一致するだろう。
    >
    > でも、もし芯がないとすれば「(永井均氏の表現を借りれば)この目からだけ現実に世界が見えており、この体だけが殴られると現実的に痛く、この悲しみだけが現実的に直接的に悲しい唯一の存在者」となりえるのか?
    >
    > 他者との決定的な違いをもらすこの差異はどこから生じているのか?
    > 言語化不可能な透明無味無臭の芯が存在する証左ではないのか。。。<

    「束ねる働き」があるにしても、集まるものがそれぞれ違いますもんね。直接知るのは直接集まってくるものだけだし(それ以外の実際の働きは推測だし)・・・言語化不可能の唯一性(芯)が実存するという考え方なのかなぁ。
    全然わかってないと思うけど、今の段階ではそのような感想を持ちました。

    永井均先生たちの議論、私には難しすぎて、わたしが取り組むにはまだまだ先になりそうです(;^_^A
    道徳論とか興味あるんですけどね(o^―^o)v
引用返信/返信 削除キー/
■45412 / inTopicNo.2)  Re[20]: 超越論的分析論XI−15
□投稿者/ pipit -(2026/02/23(Mon) 16:08:03)
    うましかさん、こんにちは(⌒∇⌒)

    No45407
    >ドイツ語原文ぜんぜんわからない〜(´;ω;`)ウッ…<

    原文探して驚きました。「ま、まさか一文!?」

    博識なチャッピー先輩に尋ねると、
    『はい、これは一文です。
    純粋理性批判 の典型的な「怪物的長文」ですね。』とのこと。

    チャッピー先輩のご意見も参考にしてのpipitの感想を書いてみました。
    (サンクス先輩!)

    No45407
    >しかし私たちは、全ての認識がその対象と連関するという私たちの考えが、〔それ自体のうちに〕ある種の必然性を伴っているということを認める。<


    もし「全ての認識がその対象と連関するじょ(/・ω・)/」と考えるなら、ある種の必然性も同時に考えることになる。

    どのような必然性か?

    >というのも、この対象は、私たちの認識が、漫然と、或いは任意に規定されているということが無いようにし、むしろ、ア・プリオリに或る仕方で規定されているようにするものと見做されるからである。<

    (ある統一行為がなされたときに対象を認識すると言える)と考えるカント(A105参照)にとっては、対象は、(ある統一行為)をアプリオリに規定するものにも、同様に規定される・・・と見做される。

    >何故なら、認識が或る対象と連関すべきであることによって、また必然的にその対象との連関において相互に合致しなければならない、すなわち、一つの対象という概念〔Begriff von einem Gegenstande〕を構成する、まさにそのような統一〔diejenige Einheit〕を持たねばならないからである。<

    チャッピー先輩のご意見を全然勘違いしてるかもですが、いまのところ文意をそのように考えてみました。

    うましかさん、カント大沼おつかれさまです〜( ノД`)シクシク…
    (でもおもしろい?)
引用返信/返信 削除キー/
■45408 / inTopicNo.3)  無味無臭透明な芯
□投稿者/ パニチェ -(2026/02/23(Mon) 08:07:50)
    おはようございます、pipitさん、うましかさん。
    横レス失礼しますが、独り言みたいなワケわかめのレスだと思うのでスルーして下さい。

    No45404に返信(pipitさんの記事)
    > うましかさん、こんにちはー(^O^)

    > No45402
    > >自己のイメージとして、タマネギ等に喩える人がいますね<
    >>皮(属性)を一枚一枚めくって最後には何も残らない、つまり私(自己)は属性の総体、みたいな<

    > 私(自己)は「結束バンド」とかね( ^ω^ )?

    私は以前は“私”を「束」という表現を使ってました。
    立場や役割、性別や個性などなど、さまざまな細い1本1本が集まった束。

    父親、夫、ビジネスマン、男、友人、短気などなど。。。

    でもその1本1本は他者にも当てはまる言語化可能なものであって〈私〉そのものではない。
    もしこの束に〈私〉のような芯がないとすれば仏教の無我と完全に一致するだろう。

    でも、もし芯がないとすれば「(永井均氏の表現を借りれば)この目からだけ現実に世界が見えており、この体だけが殴られると現実的に痛く、この悲しみだけが現実的に直接的に悲しい唯一の存在者」となりえるのか?

    他者との決定的な違いをもらすこの差異はどこから生じているのか?
    言語化不可能な透明無味無臭の芯が存在する証左ではないのか。。。

引用返信/返信 削除キー/
■45407 / inTopicNo.4)  超越論的分析論XI−15
□投稿者/ うましか -(2026/02/23(Mon) 02:45:31)
    2026/02/23(Mon) 02:47:29 編集(投稿者)

    piptさん、こんばんはー

    カント沼投稿です(;´・ω・)

    ドイツ語原文ぜんぜんわからない〜(´;ω;`)ウッ…

    訳文もさっぱりわからない〜( ノД`)シクシク…


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ 3. 概念における再確認の綜合について〔Von der Synthesis der Rekognition im Begriffe〕

    ◆ 私たちが思考しているものが、私たちが一瞬前に思考したものとまさに同じものであるという意識がなければ、諸表象の系列における全ての再生産は無益になるだろう。
    何故なら、〔もしそうだとすれば、〕私が思考しているものは、現在の状態における一つの新しい表象となってしまい、この表象は、表象を次々と産出したはずの作用には全く属さないことになってしまい、そうした表象の多様なものは常にいかなる全体をも成さなくなるに違いないからである。というのも、この多様なものは、あの意識のみがそれに与え得る統一を欠いたからである。
    もし、私が数をかぞえる際に、私にとって今感覚〔Sinnen〕の前に漂っている単位が、順次互いに私によって付け加えられたものであるということを忘れるならば、私は、このように1に1を継続的に付け加えることによって大きな数が産出されたということ、従ってまた、数〔という概念そのもの〕を認識しないだろう。何故なら、この〔数の〕概念はただ、この総合の統一についての意識にのみ存在するからである。

    ◆ 「概念」という言葉〔Das Wort Begriff〕が、既に自ずから私たちを導いて以上のことを注意させるのかもしれない。というのも、この一つの意識〔eine Bewusstsein〕こそ、多様なもの、〔即ち、〕順次直観されたもの〔Angeschaute〕を、継いでまた再生産されたもの〔Reproduzierte〕をも、一つの表象〔eine Vorstellung〕のうちへと合一させるものに他ならないからである。この意識はしばしば弱いものでしかあり得ないので、私たちはこの意識をその結果においてしか表象の産出と結びつけず、その作用自身おいては、換言すれば、直接的には、表象の産出と結びつけることがない。しかし、こうした相違にもかかわらず、やはり一つの意識〔ein Bewusstsein〕は、たとえその意識が際立った明瞭さを欠いているにせよ、常に見出されなければならない。だからこの意識無しでは、諸概念は、そして諸概念と共に諸対象についての認識は、全く不可能なのである。

    ◆そこでこの場合、いったい諸表象の対象という表現〔Ausdruck eines Gegenstandes der Vorstellungen〕で何が意味されているのかに関して説明しておくことが必要である。
    私たちは先にこのように述べた。すなわち、諸現象そのものは感性的表象〔sinnliche Vorstellungen〕以外の何ものでもなく、この感性的表象はそれ自体では、まさにこの感性的という様式においては、(表象能力〔Vorstellungskraft〕の外にある)対象と見なされてはならないのだと。〔では、〕その認識に対応する、従ってまたその認識と区別された対象について語る時、いったい人は何を理解しているのであろうか?容易に洞察できるのは、この対象は、或るもの一般〔etwas ueberhaupt〕=Xとしてのみ思考されざるを得ないということである。というのも、私たちは、自らの認識の外に、この認識に対応するものとして対置できるものを何一つ持っていないからである。

    ―― No.45317 の続き ---

    ◇ しかし私たちは、全ての認識がその対象と連関するという私たちの考えが、〔それ自体のうちに〕ある種の必然性を伴っているということを認める。というのも、この対象は、私たちの認識が、漫然と、或いは任意に規定されているということが無いようにし、むしろ、ア・プリオリに或る仕方で規定されているようにするものと見做されるからである。

    ◇ 何故なら、認識が或る対象と連関すべきであることによって、また必然的にその対象との連関において相互に合致しなければならない、すなわち、一つの対象という概念〔Begriff von einem Gegenstande〕を構成する、まさにそのような統一〔diejenige Einheit〕を持たねばならないからである。


    † 原佑訳上巻、p.270参照。 原典はMeiner, p.213〜p.214
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.198、石川文康 訳 上巻, p.163〜p.164、有福孝岳訳, p.183
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 訳文作成では、ChatGPTを活用・参考にすることがあります。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    XI−13 No.45082、XI−14 No.45317、XI−15 No.45407
    XI−10 No.44534、XI−11 No.44755、XI−12 No.44983
    XI−7 No.43813、XI−8 No.43877、XI−9 No.44186
    XI−4 No.41315、XI−5 No.43407、XI−6 No.43622
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
    第二節 No.40347,40360,40741,41315,43407,43622,43813,
    No.43877,44186,44534,44755,44983,45082,45317,45407

引用返信/返信 削除キー/
■45406 / inTopicNo.5)  うましかさんへ(`・∀・´)
□投稿者/ pipit -(2026/02/22(Sun) 23:40:30)
    知らなかったなー

    結束バンド
    ♪ドッペルゲンガー

    ://youtu.be/776pBhZ3oO0?si=OWR-vssZC8iyZGwP

引用返信/返信 削除キー/
■45405 / inTopicNo.6)  pipitさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2026/02/22(Sun) 21:14:04)
    こんばんはー

    No.45404(pipitさん)

    >私(自己)は「結束バンド」とかね( ^ω^ )?

    とかね(´・_・`)

    ・h
    ttps://www.youtube.com/watch?v=EKedY3tedTY


引用返信/返信 削除キー/
■45404 / inTopicNo.7)  うましかさんへ( ^ω^ )
□投稿者/ pipit -(2026/02/22(Sun) 15:17:41)
    うましかさん、こんにちはー(^O^)

    No45402
    >自己のイメージとして、タマネギ等に喩える人がいますね<
    > 皮(属性)を一枚一枚めくって最後には何も残らない、つまり私(自己)は属性の総体、みたいな<

    私(自己)は「結束バンド」とかね( ^ω^ )?

    > ここで、いや全体は部分の総和にまさると考えるか、部分の総和にすぎないと考えるかで、うましかと名づけられたタマネギとしての存在的な意義みたいなものを感じるかもしれませんが、、、<

    > しかし、タマネギもいつかは腐敗し塵にかえるとすれば、そこには時間的な意義みたいものが感じられるかもしれません<

    感情や感覚というやっかいなものがあるので、
    やっぱり苦より苦が無いの方がいいと思うしなぁ

    > で、そこに在る、そこに在った、というのも、人の記憶に制約されているものだとすれば、覚えている人が誰もいなくなれば、
    >
    > >残らないも残らない
    >
    > かもしれませんね(´・_・`)<

    「無い」ということを考えます。
    何かがあって、それが「無い」。

    普通に考えたら、思考が無いときに「無い」も無いのかなぁとか。


    > ここまで書いて、そろそろ年度末だなーとおもいました(´-`).。oO<

    !(◎_◎;)は、はやい、ハヤスギル....

    人生忙し過ぎる気もします....YouTube見過ぎかも....
引用返信/返信 削除キー/
■45402 / inTopicNo.8)  pipitさんへ(・∀・)
□投稿者/ うましか -(2026/02/22(Sun) 13:18:49)
    No.45395(pipitさん)

    >すべての属性を振り落としていったなら、
    そのとき何が残るのだろう

    残ると残らない

    残らないまで滅するなら

    残らないも残らないのだろうか<


    自己のイメージとして、タマネギ等に喩える人がいますね

    皮(属性)を一枚一枚めくって最後には何も残らない、つまり私(自己)は属性の総体、みたいな

    ここで、いや全体は部分の総和にまさると考えるか、部分の総和にすぎないと考えるかで、うましかと名づけられたタマネギとしての存在的な意義みたいなものを感じるかもしれませんが、、、

    しかし、タマネギもいつかは腐敗し塵にかえるとすれば、そこには時間的な意義みたいものが感じられるかもしれません

    で、そこに在る、そこに在った、というのも、人の記憶に制約されているものだとすれば、覚えている人が誰もいなくなれば、

    >残らないも残らない

    かもしれませんね(´・_・`)



    ここまで書いて、そろそろ年度末だなーとおもいました(´-`).。oO


引用返信/返信 削除キー/
■45400 / inTopicNo.9)  うましかさんへ(^_^)
□投稿者/ pipit -(2026/02/22(Sun) 00:12:53)
    うましかさん、こんばんは(^_^)

    No45399
    > 久しぶりに本屋に行ったらカント先輩の「プロレゴメナ」の新訳が! (・∀・)☆
    >
    > ◇大橋容一郎訳『プロレゴーメナ』,2026年<

    おぉ!積読になるかもだけど持っておきたいです!

    本屋さんおもしろいですよね♪

    > >『純粋理性批判』への無理解や曲解に対して書かれた本書は、『純粋理性批判』の詳細な解説書にして、学問としての形而上学のための序論(プロレゴーメナ)でもある。カント理解に必読の一冊。巻末資料として、本書執筆のきっかけとなったガルヴェ/フェーダー「ゲッティンゲン書評」を掲載。<

    カント先輩プンプンo(`ω´ )oの「ゲッティンゲン書評」興味あるなぁ

    > ウィキペディアでしらべてみたら、こうありました(;´・ω・)
    >
    > ・h
    > ttps://ja.wikipedia.org/wiki/属性
    >
    > >スコラ学などの古典的なアリストテレスの系譜の哲学の用語法では、attributeは本質に属し、本質を構成する性質をいった。それに対し、propertyは本質には属さないが個体の有しうる、有している特性をいった。ただし、この区別は近世以後混交し、現代ではほとんど用いられなくなった。
    >
    > チャッピー先輩に「本質的属性」と「偶有的属性」について聞いてみたらおもしろかったです(*‘∀‘)

    本質的属性という考え方もあったのですね!
    私のイメージはこういうかんじなのかなぁ(属性が本質を構成する)

    うましかさん、書き込みありがとうございます♪

引用返信/返信 削除キー/
■45399 / inTopicNo.10)  pipitさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2026/02/21(Sat) 20:59:19)
    こんばんはー

    久しぶりに本屋に行ったらカント先輩の「プロレゴメナ」の新訳が! (・∀・)☆

    ◇大橋容一郎訳『プロレゴーメナ』,2026年

    ・h
    ttps://www.iwanami.co.jp/book/b10155823.html

    >『純粋理性批判』への無理解や曲解に対して書かれた本書は、『純粋理性批判』の詳細な解説書にして、学問としての形而上学のための序論(プロレゴーメナ)でもある。カント理解に必読の一冊。巻末資料として、本書執筆のきっかけとなったガルヴェ/フェーダー「ゲッティンゲン書評」を掲載。<

    *******

    ついでに、、、本屋のなかを徘徊していたら出会った本。一期一会(立ち読み)

    ◇フレデリック・グロ『歩くという哲学』,2025年

    ・h
    ttps://www.yamakei.co.jp/products/2823350020.html

    *******

    No.45395(pipitさん)

    >すべての属性を振り落としていったなら、
    >そのとき何が残るのだろう

    >残ると残らない

    >残らないまで滅するなら

    >残らないも残らないのだろうか

    ウィキペディアでしらべてみたら、こうありました(;´・ω・)

    ・h
    ttps://ja.wikipedia.org/wiki/属性

    >スコラ学などの古典的なアリストテレスの系譜の哲学の用語法では、attributeは本質に属し、本質を構成する性質をいった。それに対し、propertyは本質には属さないが個体の有しうる、有している特性をいった。ただし、この区別は近世以後混交し、現代ではほとんど用いられなくなった。

    チャッピー先輩に「本質的属性」と「偶有的属性」について聞いてみたらおもしろかったです(*‘∀‘)


引用返信/返信 削除キー/
■45397 / inTopicNo.11)  Re[25]: 日記
□投稿者/ pipit -(2026/02/21(Sat) 19:42:10)
    No45396に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >すべての属性を振り落としていったなら、
    > >そのとき何が残るのだろう
    >
    > 属性させるもの、 じゃない?

    悪魔ちゃん、こんばんは
    属性させるものがちゃんと残るのかなぁ
    生きるが属性させるものであったら、それが主体であり得るのかなぁ
    主体が生きるという考え方が普通(普遍的)なのかなぁ
    書き込みありがとうね!


引用返信/返信 削除キー/
■45396 / inTopicNo.12)  Re[24]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/21(Sat) 19:16:51)
    >すべての属性を振り落としていったなら、
    >そのとき何が残るのだろう

    属性させるもの、 じゃない?
引用返信/返信 削除キー/

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