TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

■45398 / inTopicNo.1)  愛について
  
□投稿者/ rest -(2026/02/21(Sat) 20:17:06)
    迷ったが保存する価値があると思います。α&ωさんどうか事後承諾を。

      ▼■
    □投稿者/ α&ω -(2026/01/24(Sat) 11:58:53)
    2026/01/24(Sat) 21:17:41 編集(投稿者)

     「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。
      その中で最も大いなるものは愛である。」
      (コリント人への手紙第一13章13節)

    とあるが、愛は一般的に語られるのではなく、個別的に語られるべきだ。
    たとえば家族愛も愛であり、利己愛も愛である。愛一般が素晴らしいとは言えない。
    家族愛の愛は素晴らしいが、利己愛の愛は素晴らしいとはいえない。個別的に判断しなくてはならない。
     ここでいう「愛」は人間の愛とは違い「神」の愛である、とたぶん解釈できる。
     
    「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
      ー略ー
      天の父は悪い人にも良い人にも太陽をのぼらせ、正しい
      人にも、正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」
      (マタイ福音書5章44〜45節)
    自分と同じ考え方の人のみ愛する、つまり味方のみ愛するという共同体的愛
    ではなく、自分と意見の異なる人、つまり敵も尊重するという愛です。
     共同体への愛は同時に異なる他者への憎しみも派生させます。個性愛は
    類への憎しみを同時に生じさせます。愛と憎しみがコインの裏表のようにいつも
    一緒なのです。Appendixさんのいう物理のベクトルと同じです。
    「愛」の是非は一般的ではなく、個別的に語られるべきです。


    (追記)restによる一見解。

    今回の衆院選挙において「多様性の尊重」が裏目にでたのではないか。
    「多様性の尊重」というと同時に似た者同士嫌うという傾向もあるので
    「多様性の尊重」という意見をもった者同士がぶつかると多様性を嫌う意見
    すなわち「共同性の尊重」へ流れる、逆の効果もあるのではないかと考えている。
    だからこそ最初からバランスを尊重し、現在は共同性へ偏りすぎるのでバランスを
    取り戻すため「多様性の尊重」へ力を入れる、という具合に方向づけるべきだった
    のではないか。
引用返信/返信 削除キー/
■45295 / inTopicNo.2)  Re[30]: 真理 2ー追記(保存用)
□投稿者/ rest -(2026/02/07(Sat) 22:01:43)
    2026/02/09(Mon) 10:32:40 編集(投稿者)
    2026/02/08(Sun) 20:15:40 編集(投稿者)

    光の粒子と波動性からすべての物質の粒子に拡大して
    適用したのがド・ブロイの「物質波」という考え方であり、
    これを発展させたのがシュレディンガーの方程式だ。

    Ψ(プサイ)=Acos2π(x/λ−vt) ……@
    Ψは三角関数のy軸の値を示し、Aは波の振幅を表す。
    xは位置、λは波長、vは振動数、tは時間を表す。

    E=hv ……A
    Eはエネルギー、hはプランク定数、

    P=h/λ……B
    Pは運動量を表す。
    @にA、Bを代入すると

    Ψ=Acos2π(Px/h−Et/h)……C
    となる。

    次に
    E=T+V……D
    Eはエネルギー総和、Tは運動エネルギー、Vは位置エネルギーを示す。

    T=(1/2)mv^2 なので
    E=(1/2)mv^2+V……E

    粒子の運動量P=mv……F
    だからFをEへ代入し
    E=P^2/2m+V……G
    これにΨをかけてEΨ=(P^2/2m)Ψ+VΨ……H
    ℏ(エイチバー)=h/2πと定義すると

    次のシュレディンガー方程式が導き出せる。
    iℏ[∂Ψ(x、t)/∂t]=−ℏ^2/2m.∂^2Ψ(x、t)/∂x^2+VΨ(x、t)

    これはエネルギーの総和=運動エネルギー+位置エネルギーを構造
    として含んでいることを意味している。

    (追記)

    オイラーの公式によって三角関数は虚数iを用いた指数関数に変換することが
    できる。
    cosnx=(1/2)(e^inx+e^-inx)

    sinnx=(1/2)(e^inx−e^-inx)
    これらより
    波動関数Ψは@を次のように書き換えることができる。

    Ψ=Ae^i(kx-ωt)
    となる。
    上の波動関数Ψを時間tで1階微分すると∂Ψ/∂t=-i/h.EAe^(i/h)(px-Et)
    より変形してE=-ih.(∂Ψ/∂t)Ψ^(-1)……I
    波動関数を位置で2階微分すると
    (∂^2Ψ)/(∂x^2)=-P^2/h^2.Ae^(i/h)(Px-Et)
    より変形してP^2=-h^2.(∂^2Ψ)/∂x^2.Ψ^1……J

    E=P^2/2m+V……K
    I、JをKへ代入すると

    [-(h^2/2m)(∂^2/∂x^2)+V]Ψ(x,t)=ih(∂/∂t)Ψ(x,t)

    1次元のポテンシャルあるシュレディンガー方程式となる。
    ここでhはエイチバーのことである。


    波動関数のエネルギーの構成要素である位置エネルギーより運動エネルギーが
    力学的ベクトルを示していると考えている。
    唯物論と観念論(唯心論)の統合にあたって運動エネルギーの力学的
    ベクトルとして主観における感情と構造が本質的に同じではないかと
    推測している。


引用返信/返信 削除キー/
■45288 / inTopicNo.3)  Re[29]: 真理 2ー追記(保存用)
□投稿者/ rest -(2026/02/07(Sat) 11:42:17)
    2026/02/07(Sat) 19:15:07 編集(投稿者)

     運動方程式が力F(ニュートン)=m×a(mは質量、aは加速度)……@

    等加速度直線運動の公式V^2−Vo^2=2as(Voは初速度 sは移動距離) ……A

    @よりa=F/m ……B

    BをAに代入すると

    Vo=0と置くと

    V^2−0^2=2as

    V^2=2(F/m)s

    Fs=1/2・mv^2 (単位ジュールJ)

    力×距離=エネルギー(単位ジュールJ)

    で示され物理的力のベクトルの運動は「仕事する能力」であり、運動エネルギーで示すことができる。

    主観における感情を力学的に把握できれば唯物論と観念論(唯心論)との統合もあながち夢ではないかもしれない。


引用返信/返信 削除キー/
■45287 / inTopicNo.4)  真理 2ー追記(保存用)
□投稿者/ rest -(2026/02/07(Sat) 11:01:05)

     消えるのが惜しいので保存しておきます。Appendixさんご了承を
    お願いします。

     投稿者/ Appendix -(2026/01/17(Sat) 12:16:12)
    2026/01/18(Sun) 21:40:49 編集(投稿者)
    再々掲載します。

     □投稿者/ Appendix -(2026/01/14(Wed) 23:49:06)

    2026/01/16(Fri) 09:17:19 編集(投稿者)

    再掲載します。

    □投稿者/ Appendix -(2025/09/28(Sun) 12:31:29)

    ある理論が正しいかどうかは現実で検証されてわかる。
    つまり真理は現実的なものだということ。
    すると真理を求める求道者は現実的であらねばならない。
    カントの物自体の認識判断の保留(コペルニクス的転回)は理性的ではあっても
    現実的ではない。
    物の実体はあるか、ないかのどちらかであり、どちらかが現実なのだ。
    唯物論か観念論かどちらかが現実なのだ。
    それを確かめる方法はないものだろうか。

    追記

    フッサールは客観的にある実体をドグマとして主観性に置き換えた。
    無論、実体は判断停止(エポケー)されるが、理性認識としては
    認識できない。だから客観的実体に関しては追求せず、表面的主観性の関係性、
    たとえば、ノエシス・ノエマとか認識できる主観性の関係性を追求する。その
    結果、意味がないとは言えないが、実体があるか、ないかという現実問題に
    蓋をする形になってしまった。物自体というカントの不可知論も同じだ。
    立場としては唯物論や観念論とは異なる理性的認識限界を示したもので
    あるが、その立場は現実的ではない。現実は唯物論か観念論かどちらかなのだ。
    ちょうどrestさんが唯物論と観念論の統合について述べているので、私も
    可能性を否定しない立場に立ちたいと思っている。
    以前restさんが展開していたのは、光や電子の「波と粒子」の二重性から
    物質(粒子)の実体は「波」であり、波動エネルギーで示せる、と。
    すると人間の主観性も感情の波エネルギーがあり、共通しているのではないか、
    と述べていた。感情も起伏のある波で示せる。たとえば客観的世界での破壊的
    エネルギーは主観的世界では憎しみの感情で示せる。
    仮説だが力をベクトルの矢印ー→で物理では示すが、主観的に表現するとベクトルの矢印ー→の右端は「憎しみ」の感情であり、左端は「愛」の感情ではないか、「憎しみ」を作用とすると、反作用も「憎しみ」であり、「愛」を作用とすると、反作用は「愛」となる。憎しみが突き放す作用とすれば、愛は引き付ける作用がある。
    「憎しみ」の反作用としての「憎しみ」は感覚的には「苦痛」の感情で示され、
    「愛」の反作用としての「愛」は感覚的には「喜び」の感情で示される。
    主観的感情の世界の構造を客観的物理の構造で示すことも、逆に客観的物理の世界の力の構造を主観的に示すことも可能である、といえる。
    restさんの「社会哲学」に即していうと、たとえば共同体の類愛は同時に異質なものへの憎しみを派生させている、といえるし、異質な者への愛は同類への憎しみを同時に生じさせているとも言える。

    追記 2

    愛の感情は慈悲の感情ともいわれ、悲しみの感情とも言えるのではないか。

    自分に属する主観以外のものが、外に実体としてある、とする唯物論。
    自分に属する主観以外のものが、外には実体としてない、とする観念論。
    唯物論と観念論の統合ができるか、今は試行錯誤している段階だ。

    ベクトルで憎しみと愛が同時に反対向きに存在しているというのは、
    たとえば他者への愛は同時に自己への憎しみを同時に派生させている。逆に
    他者への憎しみは同時に自己への愛を同時に生じさせている、ということ。
    反作用としての憎しみは、たとえば私が作用として他者を憎んだとき、
    反作用として他者も私を憎むという、物理の作用・反作用の法則が働くのではないか。

    反作用として憎しみを相手が私に向けた時、私は苦痛を覚える。
    逆に反作用として愛を相手が私に向けた時、私は喜びを覚える。
    愛、憎しみ、苦痛、喜び、悲しみなどの力学的構造は唯物論と観念論との
    統合につながるのではないか。

    もしそれらが正しいとすれば、私はイメージとして目の前のコップへ憎しみを向けただけで破壊することができるはずだが実際にはできない。なぜか。
    脳の壁があって、イメージとしての憎しみが脳の外に出ることができないからだ。
    間接的には手を使ってハンマーでコップを割ることができるが、直接的にイメージそのもので割ることはできない。山奥で修行を重ねた僧侶なら、あるいはニーチェのいう優れた超人なら可能かもしれない。凡人にはできない。

    いままでの発明品や創造物はイメージを外部の材料を使って間接的に実現したものだが、直接的に実現することは不可能であるようだ。夢の世界を除いては。
    それが現実だと思う。

    追記 3

    意志とは「憎しみ」の感情を理性によって昇華したものではないか。

    「クオリア」とは意識に現れる「感覚的な質」のことであり、客観的外部にはない
    クオリア独自の世界である。主観的意識の世界。
    外部の世界と関係ない世界とすれば、それは唯物論の立場になる。主観と客観はまったく別と考えるのが唯物論だ。今や科学を通して唯物論が席巻している状態だ。事実上、観念論は否定され影が薄い。
    クオリアは本当に客観的世界と別個のものなのか、再検討する必要がある。
    感覚の痛みというのは外部の他者からの力による作用によって生じる。作用・反作用の法則によればその時同時に反作用としてなんらかの力が働くがそれが「憎しみ」の感情ではないか。
    主観的感性の世界が客観的世界と物理の法則を介在して呼応している。決して別の世界とは
    いえない。



引用返信/返信 削除キー/
■45073 / inTopicNo.5)  新年おめでとう
□投稿者/ rest -(2026/01/02(Fri) 12:35:45)

     新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
    クリスチャンではないのですが、聖書愛好家のひとりとして紹介します。

     「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を
      創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
      だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」
      (イザヤ書65節17-18節)

     投稿は一種の創造行為ですので、自由に楽しむということが大切では
     ないでしょうか。完全主義なのも個性ですが、不完全なのも受け入れて
     楽しむというのも個性だと思います。私は自己肯定感の薄い日本の青少年には
     後者の生き方をおすすめします。そのためには多少の失敗を許容する風土というのが
     必要ではないか、と考えます。多くの失敗を重ねてノーベル賞に輝いたというのが
     通例ですから。不完全さや失敗を許容するおおらかさが社会にほしいですね。
引用返信/返信 削除キー/
■45054 / inTopicNo.6)  善と悪と個性の関係
□投稿者/ rest -(2025/12/30(Tue) 12:55:43)

     これもついでに保存しておきたい。賛否両論があると
     思うが、ひとつのたたき台として貴重ではないか。

     投稿者/ Appendix -(2025/12/09(Tue) 23:50:04)

     「善」とは何か?私が考えるに、「善」とは共同体の言語化されたルールを守ること、
    あるいは共同体の暗黙のルールつまり、道徳を守ること、だと思う。
    逆にいえば「悪」とは、共同体のルールを守らないこと、といえる。
    「個性」とは、共同体のルールには反せずとも、共同体とは異質であること。
    共同体のルールは共同行為、つまり類的行為として守られるけれども、それらと異質な行為がルール違反となる。ルール違反は一種の個性ともみなせる。
    包含関係でいうと、悪は個性に含まれるけれども、必ずしもすべての個性が悪に含まれるわけではない。個性が共同体からの逸脱とすれば、「悪」も共同体からの逸脱なのだ。
     重なる部分もあれば、重ならない部分もある。重ならない部分が許容される個性だ。
    違いは共同体のルールを守っているかどうか、という一点だけだ。

    日本ではルール化されていなくても、あらゆる面で同調圧力がはたらき、
    人と違うことをやろうとすると集団的攻撃を受ける。
    それが学校における「いじめ」だ。これはルール以外に対する共同体による圧力だ。
    共同体は本質的に「異質」を嫌うからだ。ルールがあろうが、なかろうが「異質」を嫌うという本来の性質があるからだ。
     いま学校共同体に求められているのは、「異質」に対して寛容性をもつ、という
    姿勢だと思うが、どうだろうか。
     民主主義においても、異質な「少数派の意見」の尊重が前提になっているので、
    学校教育においても「異質」に寛容であることは民主主義を守るうえで
    必須だ、と思う。
    「異質性」が「悪」とみなされない、許容される「個性」なのだ、と自覚したいものだ。


引用返信/返信 削除キー/
■45053 / inTopicNo.7)  ルールと善
□投稿者/ rest -(2025/12/30(Tue) 12:46:02)

     これも私の勝手な判断ですが保存したいと
     思います。Appendixさん、ご了承を。

     □投稿者/ Appendix -(2025/12/17(Wed) 10:16:36)

     ドイツ占領下のポーランドのアウシュビッツ収容所の指揮官
    アドルフ・アイヒマンは、当時の規律(ルール)に従って
    ユダヤ人を強制収容所に送った。
     彼は「小役人的な凡人」であり、「命令に従っただけ」と主張。
    この場合彼は民族共同体のルールに従っただけの「善人」か。
    単純にルールに従うのが善人と捉えるなら善人に見えるが、もっと
    広い視点に立つと、民族共同体のルールではなく、人類共同体の
    暗黙のルールに従ってみると彼の行為は善とはいえない。
     ただ、このヒューマニズムも共同体をベースにしているので
    民族共同体に抗うのは困難かもしれない。
    民族共同体が異民族に対して排外的になるという、共同体の本来的性質がある
    限り、ヒューマニズム的共同体に依拠して批判するには限界があると思う。
    やはり共同体の欠点を自覚して異質なものに寛容であるという姿勢が
    戦争による悲劇を防ぐにはとても大切ではないか、と思うがどうだろうか。

引用返信/返信 削除キー/
■45052 / inTopicNo.8)  共同体と個性の関係
□投稿者/ rest -(2025/12/30(Tue) 12:38:38)

     消えていくのが惜しいのでここで保存しておきます。Appendixさん
     どうかご了承を願います。

     □投稿者/ Appendix -(2025/12/14(Sun) 20:52:49)
    2025/12/15(Mon) 10:17:54 編集(投稿者)
    2025/12/15(Mon) 10:15:44 編集(投稿者)
    2025/12/14(Sun) 21:07:38 編集(投稿者)

     共同体と個性の対立というと、共同体と個性はあくまで別物という
    考えになりがちだが、別物ではない。それどころか、共同体は
    個性なしは存在しえない。
     ある種の個性と同じ個性の仲間が、結合することを共同体と呼んでいる。
    したがって、共同体は無個性ということではなく、ひとつの個性のもとに
    共同体を形成し、その個性と異質な個性とは対立する傾向がある。
     たとえば、村落共同体に見られる村八分などがある。
    自分と似た個性に共感し、つながろうとする意識は個性意識ではなく共同体意識
    といえる。異なる個性でつながるのが個性意識だ。
     自由市場、ことに物々交換では同業種は同じ個性をもっていて、同じ個性で
    価格競争という対立関係になる、異なる個性の業種では価格競争はない。
    それを親和的と呼んでいる。ここで競争関係にない状態とは、無関心も
    含めてということになる。
     共同体が個性に寛容になるということは、必ずしも共同体の自己否定ではない。
    共同体の欠点を自覚したうえで、異質な個性を排除するのではなく、尊重し、受容し
    それを自覚することだ、といいたい。
     共同体の欠点とは、ルールを破るものには攻撃的だが、ルールを守っていても異質ということだけで同調圧力をかけてくることだ、と考えているが、もっと別の視点もあるかもしれない。

引用返信/返信 削除キー/
■44959 / inTopicNo.9)  法人実在説と法人擬制説
□投稿者/ rest -(2025/12/20(Sat) 11:34:37)

     法人税について法人擬制説と法人実在説の対立がある。
    日本ではシャープ7勧告以来「法人擬制説」が主流であり、通説となっている。
    擬制説では法人税は配当に株主が課税されているので二重課税だと主張しているが、
    それならば株主だけに課税すればいいのに、なぜ現実には法人税が課されるのか。
    実は擬制説のいうように法人税を課さないと、配当をしないでため込むと永久に
    課税されないという欠点があるからだ。
    さらに受け取り配当の益金不算入という制度がある。
    A社が子会社でB社が親会社の場合、B社がA社からの受け取り配当を益金不算入する
    制度になっている。二重課税を防ぐためである。擬制説に基づいている。
    これによる減税額は2.9兆円(約3兆円)に上り莫大である。
    1996年から現在にいたるまで利益はコストカットなどで4倍に増えたが、配当は8倍に増えている。しかし賃金は1倍であり、格差が拡大してきている。

    詳しくは、
     法人税(4)配当非課税の闇?法人実在説と法人擬制説

     h-ttps://www.youtube.com/watch?v=TxZxImgxxB4

引用返信/返信 削除キー/
■44763 / inTopicNo.10)  Re[22]: 実質賃金が増えない理由
□投稿者/ rest -(2025/12/02(Tue) 10:05:56)
    2025/12/03(Wed) 21:31:58 編集(投稿者)
    2025/12/03(Wed) 09:49:53 編集(投稿者)

    No44748に返信(restさんの記事)
    >
    >  労働生産性の上昇に伴って、株主配当は上昇し、95年の5.6倍に。
    > しかし実質賃金は上昇していない。
    > なぜか。交易条件の悪化(輸出品の価格が低下し、輸入品の価格が上昇することによって国内の富が海外に移転する)つまり円安による物価上昇も要因ではあるが、
    > 名目賃金の上昇を容易に価格に転嫁する業界の体質に主な要因があるのではないか。
    > 企業は競争せず、業界組織を造って競争を回避する。
    > その結果、人件費上昇分を商品の価格へ転嫁しやすくなる。一種のカルテル(寡占価格)だ。競争があれば価格転嫁は簡単にできないからだ。
    > 業界が組織(同業者による共同体)を造って、消費者(異質な他者)に価格転嫁して困らせる。こういう構造はあきらかに独占禁止法に違反するはずだ。
    >  米の値上がりにしてもJA(農協)と卸売業者の仕入れ競争のよって卸値が値上がりしたからだ、といわれているがそもそもJAが農民の作った共同体組織であり、卸売り業者と競争関係にない。どちらかというと卸売業者と農民を代表して交渉する当事者の関係にある。農民の立場を代表して共同体を造って農民同士の競争を回避し、異質な他者である卸売り業者や消費者に価格転嫁(攻撃的な態度)をする関係にある。
    >  これも一種の寡占価格だ。米が自由市場で決まるとはいえない。
    > 寡占市場であって、自由市場ではない。

    農民の定義は、「農協法」(農業協同組合法)の第2条2項において
    「自ら農業を営み、または農業に従事する個人」と定義されている。
    「百姓」は差別用語として使われたこともあるが、「農民」は差別用語ではない。

    米は価格弾力性が低いので、容易に価格転嫁が起こりやすい。
    生活必需品なので価格が上がったからと言って、消費量を減らすということはあまりないからだ。
    農民は結束して農協(共同体)をつくり、消費者は団結せず、ばらばらで競争状態なので
    農民にとっては有利な状態といえる。
    もっとも輸入米との競争を自由にすれば消費者にとってメリットは大きい。
     が農民の政治的影響力は大きいので、それも難しいようだ。
    食料安全保障上の問題もあって輸入米自由化にかじを切るわけにもいかないようだ。日中関係がこじれてレアメタルの規制にあうというように、米も海外依存してしまうと政治的に利用されかねない、という不安があるということのようだ。
     そこも配慮してコメの自給率を向上させつつ、消費者にとってもメリットがあるというような方法があるとすれば、農家がもっと競争的に生産性を高めてコストを下げるしかない。
    一般的に競争が生産性を高めるからだ。
    海外の米農家との競争も視野に入れてコストを下げる、ということも必要になってくる。
引用返信/返信 削除キー/
■44762 / inTopicNo.11)  Re[24]: 小中高生の自殺者数 最多
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/01(Mon) 19:04:22)
    restさん、このことについてはここにはもうこないからごめんね、ちょっと感想ね。

    「追い込まれた」じゃなくて、「自死」っていうの「自ら」だと思うのね。

    「凍死という自死」だとしたら、その人、わたしよりもよっぽど頭よかったんあだな〜、って。




引用返信/返信 削除キー/
■44759 / inTopicNo.12)  Re[23]: 小中高生の自殺者数 最多
□投稿者/ rest -(2025/12/01(Mon) 10:11:05)
    2025/12/03(Wed) 10:00:07 編集(投稿者)

    No44752に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > restさん、お邪魔します。
    >
    > 「旭川市いじめ問題再調査報告書(公表版)」
    > っていうのをネットで見つけました。
    > まだ、ざっとしか読んで人だけど、
    >
    > この標題にあるような「いじめ」っていう言葉の括りの中におさめてしまって見ること自体を問題いとしないことが問題なんじゃないかしら?って。
    >

    「旭川いじめ問題再調査報告書(公表版)」自体が363ページもあり、読む時間がないので要約版で理解しました。
    原因としては具体的に示されていますが、凍死という自殺にいたる構造的要因に焦点をあてると、何が彼女を死に追い詰めたのか、ということが重要に思われます。
     小学校までは特別支援学校(情緒学級)に通っていたということであり、普通とは違うかなり特性のある子どもではなかったかと思われます。中学校では普通クラスに入っていますので普通と違う子はいじめにあいます。無視などされて孤立し友達ができなかった。そこでクラス外に居場所をみつけましたが、そこでもいじめを受けてしまいました。少人数グループ10名からさまざまないじめ(入水事件や性的いじめ)を受けたようです。
     少人数の小さな共同体による個性のある子へのいじめ、という構造です。
    転校はしましたが、PTSDを発症し、入退院を繰り返すなか、深い心の傷によって凍死という自死に追い込まれました。
引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -