TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■42411 / inTopicNo.1)  Re[29]: 梵我一如と独我論
  
□投稿者/ knowingitself -(2025/04/18(Fri) 16:19:05)
    ザビビのふくろうさん レスありがとうございます

    > knowingitselfさん、こんにちは。
    >
    > ■No42308に返信(knowingitselfさんの記事)
    >
    >>ザビビのふくろうさん 解説ありがとうございます。理解するためには、少し時間をおかせてください。
    >>
    > 補足ですが、
    > 上記の説明は、あくまでウィトゲンシュタインの主張をまとめ上げただけで、
    > この主張が正しいことの証明にはなっていません。
    > 「世界=私の世界」が正しいことの証明(示し)は、
    > 物理的言語を分析して、現象言語で定義、再構成することによって示されます。
    > それで、ウィトゲンシュタインは、復帰した直後からだいたい『考察』の時期に、現象言語を一次言語と呼んだりしています。
    > これは、ラッセルがもともと目指した現象主義的プログラムで、『外部世界はいかにして知られうるか』で述べられ、その基礎については論文でも考察しています。
    > 『論考』の論理的原子論は、その原論ともみなしえるのでは、と私は考えます。
    > で、少し異なるやり方ですが、実際にこのプログラムに取り組んだのは、論理実証主義者であるカルナップの『世界の論理的構築』という著作です。

    論理実証主義者の著作はあまり読んだことがありません。前期ウィトゲンシュタインについても、論理実証主義者として捉えることに違和感を覚えますね。わたしは、後期ウィトゲンシュタインの方が、どちらかというとピンときます。


    >>ただ、一点だけ質問させていただきます。
    >>
    >>世界=実在世界=マクロコスモス
    >>
    >>だとして、世界の外の神はどうなるのでしょうか。ウィトゲンシュタインは神を否定していませんよね?
    >>
    >>梵我一如なら、マクロコスモスは神になると思います。
    >
    > 美や善と同じく、世界の外部の存在=超越的対象となりますね。
    > 当然、示され得ても、語り得ぬものということになります。
    >

    語り得ぬとしても、世界の外部を示すえるなら、梵我一如ではないと思います。

    梵というのは、もうその外部などない究極でしょう。美でも倫理でも同じです。梵の外に美も倫理もないはずです。
引用返信/返信 削除キー/
■42407 / inTopicNo.2)  Re[28]: 梵我一如と独我論
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/18(Fri) 15:43:44)
    knowingitselfさん、こんにちは。

    No42308に返信(knowingitselfさんの記事)

    > ザビビのふくろうさん 解説ありがとうございます。理解するためには、少し時間をおかせてください。
    >
    補足ですが、
    上記の説明は、あくまでウィトゲンシュタインの主張をまとめ上げただけで、
    この主張が正しいことの証明にはなっていません。
    「世界=私の世界」が正しいことの証明(示し)は、
    物理的言語を分析して、現象言語で定義、再構成することによって示されます。
    それで、ウィトゲンシュタインは、復帰した直後からだいたい『考察』の時期に、現象言語を一次言語と呼んだりしています。
    これは、ラッセルがもともと目指した現象主義的プログラムで、『外部世界はいかにして知られうるか』で述べられ、その基礎については論文でも考察しています。
    『論考』の論理的原子論は、その原論ともみなしえるのでは、と私は考えます。
    で、少し異なるやり方ですが、実際にこのプログラムに取り組んだのは、論理実証主義者であるカルナップの『世界の論理的構築』という著作です。

    > ただ、一点だけ質問させていただきます。
    >
    > 世界=実在世界=マクロコスモス
    >
    > だとして、世界の外の神はどうなるのでしょうか。ウィトゲンシュタインは神を否定していませんよね?
    >
    > 梵我一如なら、マクロコスモスは神になると思います。

    美や善と同じく、世界の外部の存在=超越的対象となりますね。
    当然、示され得ても、語り得ぬものということになります。

引用返信/返信 削除キー/
■42403 / inTopicNo.3)  Re[29]: 梵我一如
□投稿者/ 時 -(2025/04/18(Fri) 14:10:06)
    気まぐれさんへ。返信をありがとうございます。

    非一非異は、真如と現象が「同じでも別でもない」という中道を表しているようですが、現象は実在とするそうです。

    梵我一如は、ブラフマンとアートマンが同一という哲学ですので、非二元ということでの視点から、現象自体が幻想ということになります。

    ここでの相違点は、現象を実在(非一非異)と捉えるのか、幻想(梵我一如)と切り捨てるのかの違いのようですね。

    ただし、真如とブラフマンという実在性については同じようですので、この点で解釈すると、一如という表現では、同じ次元だと思います。

    > 梵我一如の一如に「非一非異」を読み取るのは無理筋ですかね。

    しかし、梵我一如自体の次元的概念は同じでも、非一非異は、現象を実在ととらえ、梵我一如はその現象自体を幻想だと切り捨てますので、そこに矛盾が生じると思います。

    少し調べただけの結果ですので、はっきりとは理解に及んでいないかもしれませんが、私の解釈としては、梵我一如の一如に「非一非異」を読み取るのは無理筋だと思います。^^

    大乗仏教の世界観が絡むと、ややこしいですね(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■42402 / inTopicNo.4)  マーヤー的世界認識 不二一元論
□投稿者/ knowingitself -(2025/04/18(Fri) 13:37:46)
    「超越のことば イスラーム・ユダヤ哲学における神と人」井筒俊彦

    この中のXは、「マーヤー的世界認識 不二一元論的ヴェーダーンタの思惟構造をめぐって」という60数ページの論考です。

    片っ端から引用したいくらいだが、もっている人は読んでください(笑)

    黒崎宏と井筒俊彦は海外ではよく会っていて、井筒はウィトゲンシュタインの前期と後期の違いについて質問していたんだって。

    でも、ヴェーダーンタや大乗仏教なら、ウィトゲンシュタインにいくことはないと思う。井筒俊彦の方が造詣は圧倒的でしょう。その井筒俊彦も、日本の仏教学者は「仏教になっていない、異質だ」と批判されることが多い。
引用返信/返信 削除キー/
■42399 / inTopicNo.5)  Re[28]: 梵我一如
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/04/18(Fri) 12:49:45)
    No42396に返信(時さんの記事)
    > 2025/04/18(Fri) 12:17:17 編集(投稿者)
    >
    > 気まぐれさんへ。こんにちは。

    時さん
    こんにちは。
    返信ありがとうございます。

    >
    > ■No42385に返信(気まぐれさんの記事)
    >>梵我一如って我が梵に消融されるということではなくて、梵と我が非一非異であるって理解は間違ってます?
    >>我が梵に統合されるのではなくて、我は我のまま、その我性を失わずに梵である。つまり事事無礙的に捉えてよいのかということです。
    >
    > 梵我一如は、「梵(宇宙我、ブラフマン)=我(個我、アートマン)」という、ウパニシャッド哲学での表現だと思います。ですので、梵と我の同一性を強調しているようですね。
    >
    > >つまり事事無礙的に捉えてよいのか
    >
    > 事事無礙を知りませんので、私には分かりません。

    単純な同一と差異性をうちに持つ同一あるいは、同一性をうちに持つ差異性の違いがあると思っていて、後者は大乗起信論などの論書で「非一非異」と言われていると思うのですが、梵我一如の一如に「非一非異」を読み取るのは無理筋ですかね。
引用返信/返信 削除キー/
■42396 / inTopicNo.6)  Re[27]: 梵我一如
□投稿者/ 時 -(2025/04/18(Fri) 11:59:43)
    2025/04/18(Fri) 12:17:17 編集(投稿者)

    気まぐれさんへ。こんにちは。

    No42385に返信(気まぐれさんの記事)
    > 梵我一如って我が梵に消融されるということではなくて、梵と我が非一非異であるって理解は間違ってます?
    > 我が梵に統合されるのではなくて、我は我のまま、その我性を失わずに梵である。つまり事事無礙的に捉えてよいのかということです。

    梵我一如は、「梵(宇宙我、ブラフマン)=我(個我、アートマン)」という、ウパニシャッド哲学での表現だと思います。ですので、梵と我の同一性を強調しているようですね。

    >つまり事事無礙的に捉えてよいのか

    事事無礙を知りませんので、私には分かりません。
引用返信/返信 削除キー/
■42385 / inTopicNo.7)  梵我一如
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/04/18(Fri) 07:14:43)
    梵我一如って我が梵に消融されるということではなくて、梵と我が非一非異であるって理解は間違ってます?
    我が梵に統合されるのではなくて、我は我のまま、その我性を失わずに梵である。つまり事事無礙的に捉えてよいのかということです。
引用返信/返信 削除キー/
■42384 / inTopicNo.8)  Re[25]: 私の世界
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/04/18(Fri) 06:38:06)
    ちなみに私は、「世界が私する」って方向で思索できないかと思っています。
    これはイスラームを論じるところで井筒俊彦が定式化した「存在が花する」のパクリです。
引用返信/返信 削除キー/
■42383 / inTopicNo.9)  私の世界
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/04/18(Fri) 06:33:07)
    ふくろうさん

    おはようございます。

    昔教えていただいたかもしれないですが、改めて教えてください。

    世界は私の世界である。

    は例えば、「痛いのは腹痛だ」のような重複した表現ではないのでしょうか?
    私は相変わらず、隣接項のない私を“私”とすることに意味がないんじゃないかと思っちゃうんですよね。

    ↑は「特異点に私がいる」と「特異点は私である」の違いのところで言われていたと思うのですが、「特異点に私がいる」と言ってしまうと、「私」が存在者として捉えられてしまうように、「世界は私の世界である」というときも「私」が存在者として捉えられてしまうのではないかと思ってしまうということでもあります。

引用返信/返信 削除キー/
■42359 / inTopicNo.10)  Re[23]: 普通なら
□投稿者/ タンチョウ -(2025/04/17(Thu) 21:46:38)
    少し付け足しますと

    鈴木大拙さんは

    世の中を思慮するに開ける道と

    世の中を思慮するに閉じる道があるらしいです・・
引用返信/返信 削除キー/
■42358 / inTopicNo.11)  Re[22]: 普通なら
□投稿者/ パニチェ -(2025/04/17(Thu) 21:41:16)
    2025/04/17(Thu) 21:43:35 編集(投稿者)

    No42356に返信(タンチョウさんの記事)
    > 申し訳ありませんが・・
    >
    > 「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」の名言の
    >
    > 鈴木大拙さまの方をお読みになられた方がまだ世界に通用するように思えます・・
    >
    > 私はヤスパースさんなのは生い立ちとか性格とか共通共感するからです・・
    >
    > 普通の日本人なら鈴木大拙さんと西田幾多郎さんが正統派ではございませんか?


    鈴木大拙の名言ではなく、ニーチェの名言です。

    『現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。(ニーチェ「力への意志 第481番」より)』
引用返信/返信 削除キー/
■42356 / inTopicNo.12)  Re[21]: 普通なら
□投稿者/ タンチョウ -(2025/04/17(Thu) 20:43:52)
    申し訳ありませんが・・

    「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」の名言の

    鈴木大拙さまの方をお読みになられた方がまだ世界に通用するように思えます・・

    私はヤスパースさんなのは生い立ちとか性格とか共通共感するからです・・

    普通の日本人なら鈴木大拙さんと西田幾多郎さんが正統派ではございませんか?
引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -