| 時として表現される議論という日本語訳の語源を見てみました。勿論、原始でのお話です。議論と日本語訳されているものには、大まか2つの意味があるようです。
1つめは、仏陀がたびたび「論争するなかれ」とその議論を制止するような行為に出る議論です。
この場合では、個々人の見解としての主張の仕合いがまずは始まります。それは論争に発展し、やがては手が出て、棒切れを振り回すような争いごとに発展します。このような論争に発展しそうな大元の時、仏陀は「論争するなかれ」と、その議論を制止するような行為に出ていたようです。
それは「〜はこうだ!違うと言うならば、言い逃れてみせよ!」と言った具合から始まります。この言葉に呼応していては、論争は避けられませんね。しかし当人には、これが絶対に正しいとしか思いようがないのでしょう。ですので、自己を正当化してお相手を非難し、それを頑なに主張し続けます。なぜならば「正しい」と言う偏った想いがあるからです。
とある仏典には、その時々に応じて含蓄ある言葉を話します。これが、人の口行での戒における最上のものです。ですので、議論での勝利を求めないのですよ。との意味合いの記載があります。
梵行中に唯一見解として修習すべきなのは、八支聖道の正見ですが、この場合にも頑なな主張にはなりません。そしてこの正見も最終的には滅尽します。生起したものは滅尽の運命にあるからです。
議論・・何かを主張すれば、そこにはなにがしかの固執があります。固執があるとき、苦の滅尽は不可能になります。
2つめは、会話対話としての議論です。これは兄弟子や僧伽の仲間内での友同士での教え合いや確認という意味合いでのものです。
この字句は同じで意味合いの異なる行為が、日本語訳では、一つの表現での「議論」と訳されているようです。
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