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■30508 / inTopicNo.85)  ダンマパダ第四章・花(Flowers)58.59
  
□投稿者/ pipit -(2023/04/30(Sun) 09:18:54)
    2023/04/30(Sun) 09:35:05 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは(*^▽^*)ダンマパダ第四章『花』の最終偈ふたつ(58.59)です!

    (Bhikkhu Sujatoさま英訳)
    From a forsaken heap
    discarded on the highway,
    a lotus might blossom,
    fragrant and delightful.

    So too, among the forsaken,
    a disciple of the perfect Buddha
    outshines with their wisdom
    the blind ordinary folk.

    (英訳のpipit日訳)
    道に捨てられ積まれたゴミ山から
    香りよく美しい蓮の花が咲くかもしれない

    そのように、
    見放された地、盲目の大衆の間にあって、
    完璧に目覚めたブッダ の弟子は、智慧と共により良く輝く

引用返信/返信 削除キー/
■30323 / inTopicNo.86)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2023/04/18(Tue) 21:46:35)
    時さん、こんばんは!

    No30321
    > なるほど。カントも傾向性(煩悩)をなくせるものならばなくしたいと思っていたのでしょうか。。しかし、それは不可能だと結論したのですね。<

    すみません、pipitはまだ未勉強なのに、勝手にイメージしてるだけなので、、、おそらく、不可能と断言的には結論してない気がします。
    わたしの能力では、カントは(も)難しくて(><)


    > 特殊能力ないと無理ポヨですか?"(-""-)"
    > そういえば昔に、仏教哲学を論理的に表現され始めているが、複雑すぎてとても素人には理解できなさそうだとザビビのふくろうさんが仰っていたように記憶しています。
    >
    > 西洋とは違い東洋では、哲学と宗教が一体となった思想体系のようですね。ですので西洋哲学に慣れ親しんだ方には、ややこしく難解に映るのかもしれません。
    >
    > カントしかりアリストテレスしかりで西洋では欲望に打ち勝つ=欲望の滅尽なんていう思想や哲学は知る限りありませんが、東洋ではその段階(処)ごとに、ここが頂点だと言わんがばかりのものが当時からあったようです。きっと、それぞれの思想を生み出す歴史的背景が違うのでしょうね。
    >
    > では、今回はこの辺で。お付き合いをありがとうございました。<

    ありがとうございます。
    またいつでもご自由に書き込みくださいねー
    \(^o^)/
引用返信/返信 削除キー/
■30322 / inTopicNo.87)  仏教トピでカント文♪
□投稿者/ pipit -(2023/04/18(Tue) 21:39:05)
    みなさま、こんばんは♪
    No30305
    > 微妙なんですけど、傾向性無くせるなら無くす方が良いに決まってる、みたいなカントの文章は読んだ記憶があります。(「道徳形而上学の基礎づけ」という著書に出てきたかと思ってます。)<

    記憶にあった箇所を見つけました。
    『道徳形而上学の基礎づけ』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p88、p132、p133より抜粋引用します。

    『欲求能力が感覚に依存することを、〈心の傾き〉と呼ぶ。心の傾きはつねに欲望と結びついたものであることが明らかになるだろう。
    (略)
     ここにあるものが存在していて、それが存在することそのものに絶対的な価値があるとしよう。そのものはまた、目的そのものとして、特定の法則の根拠になりうると想定しよう。もしもありうべき定言命法の根拠、すなわち実践的な法則の根拠というものが存在するのであれば、それはこうしたもののうちであり、こうしたもののうちだけであるだろう。
    (略)
    人間が心の傾きによって行う行為のすべての対象の価値は、条件づきのものである。というのも、人間の心の傾きと、それに基づいた欲望が存在しなければ、その対象は価値をもたないはずだからである。
    心の傾きそのものは、欲望を作りだす源泉であるが、その心の傾きは、そのものとして望まれるような絶対的な価値をもたない。
    だからこの心の傾きがまったく存在しなくなることが、すべての理性的な存在者の普遍的な願いであるべきなのである。
    (略)』
    引用終了

    この本は数年前に一応一読したのですが、ほとんど頭に残ってません( ̄▽ ̄;)
    何言ってるかわからない状態でした(泣)
    きっと、何年か後は、読める・・・ハズ!

    ( ;∀;)ヨテイ

引用返信/返信 削除キー/
■30321 / inTopicNo.88)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/04/18(Tue) 21:25:39)
    pipitさんへ。こんばんは。

    > 微妙なんですけど、傾向性無くせるなら無くす方が良いに決まってる、みたいなカントの文章は読んだ記憶があります。(「道徳形而上学の基礎づけ」という著書に出てきたかと思ってます。)

    なるほど。カントも傾向性(煩悩)をなくせるものならばなくしたいと思っていたのでしょうか。。しかし、それは不可能だと結論したのですね。

    > わたしがカント哲学の中で好きなところでもあるのですが、特殊な能力を要求しないように感じています。例外を作らない。
    > 本来は、仏教もそうなんでしょうけどね、「やればできる!」と言われても特殊能力ないと無理ポヨと感じてしまいます(^◇^;)

    特殊能力ないと無理ポヨですか?"(-""-)"
    そういえば昔に、仏教哲学を論理的に表現され始めているが、複雑すぎてとても素人には理解できなさそうだとザビビのふくろうさんが仰っていたように記憶しています。

    西洋とは違い東洋では、哲学と宗教が一体となった思想体系のようですね。ですので西洋哲学に慣れ親しんだ方には、ややこしく難解に映るのかもしれません。

    カントしかりアリストテレスしかりで西洋では欲望に打ち勝つ=欲望の滅尽なんていう思想や哲学は知る限りありませんが、東洋ではその段階(処)ごとに、ここが頂点だと言わんがばかりのものが当時からあったようです。きっと、それぞれの思想を生み出す歴史的背景が違うのでしょうね。

    では、今回はこの辺で。お付き合いをありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■30305 / inTopicNo.89)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2023/04/18(Tue) 18:29:15)
    時さん、こんばんは!
    返信ありがとうございますo(^▽^)o

    No30304
    > 率直な疑問なのですが、pipitさんご自身は、もしも自由意思で選択が可能ならば、苦の滅尽を目指す仏教(出世間)か、理性的に自由に生きることを選択できるとするカント哲学(世間)か、どちらを選ばれますか?それとも知識として両者を得られたいのでしょうか。もちろん、どの選択でも良い悪いというのではありません。^^<

    私自身は釈尊の教えに触れた者として、苦の滅尽を目指しています。が、今世ではとても無理そうと思っており、やらないよりはマシ、と、いい加減な実践しております(逃)

    > 今回、カントの自由と解脱の自由との概念の違いがよく分かりました。ご説明、ご回答をありがとうございました。<

    微妙なんですけど、傾向性無くせるなら無くす方が良いに決まってる、みたいなカントの文章は読んだ記憶があります。(「道徳形而上学の基礎づけ」という著書に出てきたかと思ってます。)

    わたしがカント哲学の中で好きなところでもあるのですが、特殊な能力を要求しないように感じています。例外を作らない。
    本来は、仏教もそうなんでしょうけどね、「やればできる!」と言われても特殊能力ないと無理ポヨと感じてしまいます(^◇^;)
引用返信/返信 削除キー/
■30304 / inTopicNo.90)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/04/18(Tue) 17:35:11)
    pipitさんへ。 ご返信をありがとうございます。

    > でも理性を持った人間は、自然ではなく自由(自らの意志により、自らに由来して)行為を始められる。(自然因果から自由へのシフト)
    > そのような論調なのかな?と今の時点ではイメージを持っています。

    了解しました。カントの言う自由とは、自由意思での選択による理性的行為が可能であるという自由ですね。

    > 傾向性を完全に滅することは可能とするのが仏教なら、傾向性は人間には無くせないけど自らの理性により自由に生きるのを目指すのがカントかな?と違いを思っています。

    率直な疑問なのですが、pipitさんご自身は、もしも自由意思で選択が可能ならば、苦の滅尽を目指す仏教(出世間)か、理性的に自由に生きることを選択できるとするカント哲学(世間)か、どちらを選ばれますか?それとも知識として両者を得られたいのでしょうか。もちろん、どの選択でも良い悪いというのではありません。^^

    今回、カントの自由と解脱の自由との概念の違いがよく分かりました。ご説明、ご回答をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■30300 / inTopicNo.91)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2023/04/18(Tue) 06:29:26)
    2023/04/18(Tue) 12:30:45 編集(投稿者)

    時さん、おはようございます!
    わたしもまだ、カントの自由論は全然調べられてないので、解説書などのつまみ読みからのイメージなのですが、カント思想には『傾向性』というキーワードがあるようで、これが仏教の煩悩と似てるのではないかとわたしは勝手に想像してます。
    欲望に傾いていく、怒りに傾いていく、おバカに傾いていく、、、それが人間の有様で、自然に発するこの思いに逆らって倫理的な行為をするのは不自然とも言える。
    でも理性を持った人間は、自然ではなく自由(自らの意志により、自らに由来して)行為を始められる。(自然因果から自由へのシフト)
    そのような論調なのかな?と今の時点ではイメージを持っています。
    傾向性を完全に滅することは可能とするのが仏教なら、傾向性は人間には無くせないけど自らの理性により自由に生きるのを目指すのがカントかな?と違いを思っています。
    (全く違ったらすみません!)

    書き込みとてもうれしいです(o^^o)
    ありがとうございます!

    No30298に返信(時さんの記事)
    > pipitさんへ。
    >
    > >もしもpipitさんがお好きなカント哲学に自由というものが考察されているのであれば、今後の参考になるのかもしれませんね。自由とは何か?どういう状態なのか?です。
    >
    > カント哲学を全く知らずに上記のように書き込みましたが、書き込みをした後に「カント 自由」で検索をかけると「カントにとって自由とは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性、つまり意志の自律そのものなのです。 カントにとって人間の理性とはそれ自体がまず実践的なものであって、普遍的法則(道徳法則)を与えることができるものなのです。」という説明が一番目に出て来ます。
    >
    > この説明もカントの自由という意味で正しいのかどうかも判断できませんが、書き込みをする前に確認をすべきでした。この内容で間違いがないようでしたら、解脱の自由や解放とは別物で参考にならないように思います。
    >
    > 大変失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■30298 / inTopicNo.92)  Re[7]: pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/04/17(Mon) 23:40:04)
    pipitさんへ。

    >もしもpipitさんがお好きなカント哲学に自由というものが考察されているのであれば、今後の参考になるのかもしれませんね。自由とは何か?どういう状態なのか?です。

    カント哲学を全く知らずに上記のように書き込みましたが、書き込みをした後に「カント 自由」で検索をかけると「カントにとって自由とは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性、つまり意志の自律そのものなのです。 カントにとって人間の理性とはそれ自体がまず実践的なものであって、普遍的法則(道徳法則)を与えることができるものなのです。」という説明が一番目に出て来ます。

    この説明もカントの自由という意味で正しいのかどうかも判断できませんが、書き込みをする前に確認をすべきでした。この内容で間違いがないようでしたら、解脱の自由や解放とは別物で参考にならないように思います。

    大変失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■30297 / inTopicNo.93)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/04/17(Mon) 22:23:09)
    pipitさんへ。こんばんは。

    > 学を実践して自ら了知した解脱者、という意味だったのだなぁと思いました。

    中村元氏、正田大観氏、光明寺経蔵氏、スジャトー氏の英訳からのpipit氏の日訳文は、大同小異でその意味合いは同じ事を伝えようとしていると見えます。ですので、どの訳文でも問題なくその意味合いを理解することができそうですね。

    >涅槃ってどんなんなのかなぁ。

    なぜここで涅槃が出るのか分かりませんが・・

    涅槃の定義は、貪欲の滅、瞋恚の滅、愚痴の滅ですが、要は、どのような処に住していようとも、そこに渇愛の働きが無ければそこが涅槃ですね。逆に言うと、どのような処に住していようとも、そこに渇愛の働きがあればそこは涅槃ではありません。つまりは、渇愛がない状態が涅槃だと理解しています。

    ですので、涅槃は渇愛のない状態であり、解脱は自由で解放された状態でしょう。もしもpipitさんがお好きなカント哲学に自由というものが考察されているのであれば、今後の参考になるのかもしれませんね。自由とは何か?どういう状態なのか?です。

    不死とは、心の解脱の事だとの記載がありますが、心の解脱(心解脱)が不死と同義であり、解脱とは自由で解放された状態です。ですので、解脱者は、自由な境地を獲得してると同時に不死の境地の獲得者でもありますね。死の束縛から解き放たれた(不死=解脱者)は、再度生を受けません。ですので仏陀のいう輪廻の終焉ですね。

    ご返信をありがとうございます。では、この辺で。
引用返信/返信 削除キー/
■30296 / inTopicNo.94)  時さんへ&ダンマパダ第四章花57
□投稿者/ pipit -(2023/04/17(Mon) 20:13:18)
    時さん、ありがとうございます(*^◯^*)

    No30278
    > 教えの知識と実戦<

    なぜ、スジャトー様は『knowledge知識』という訳語を使われたのかなぁと少し不思議に思ってたのですが、時さんのコメント読んで、そうかぁ!と納得できました。
    【教えを了知した】という意味で『freed through the highest knowledge,』と訳されたのかな、と。

    パーリ原語を見てみました。※記号省略
    【Sammadannavimuttanam】ですね。
    sammad-anna 正しく-了知・開悟(完全智)
    vimutta 解脱者

    学を実践して自ら了知した解脱者、という意味だったのだなぁと思いました。


    ※全文
    『Tesam sampannasilanam,
    appamadaviharinam;
    Sammadannavimuttanam,
    maro maggam na vindati.』

    https://suttacentral.net/dhp44-59/pli/ms?layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin


    >解脱(解放)は、仏陀の教えである四聖諦やその中の八支聖道という最高の知識や実戦による果報だという事ですね。<

    はい。

    > 一切とは、十八界や世間等の事で、それはまだ有身であり悪魔の領域です。解脱の境地に至れれば、自由であり解放され、次世はありません。つまりは、輪廻の終焉ですね。後は、感官の防護により、肉体の死を迎えるまで一の矢を受けても二の矢は受けない心の状態で平穏に過ごすだけでしょう。<

    涅槃ってどんなんなのかなぁ。
    時さん、ありがとうございます!

    ご参考にダンマパダ57の中村元先生の日訳を引用させていただきます。

    『徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい智慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。』

    『ブッダの真理のことば感興のことば』ワイド版岩波文庫p18より引用
引用返信/返信 削除キー/
■30290 / inTopicNo.95)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2023/04/17(Mon) 12:23:48)
    時兄上ーーー。゚(゚´ω`゚)゚。
    お久しぶりです!!
    書き込み嬉しいですm(_ _)m

    今出先なので、帰ったらゆっくり考えさせていただきますね!ありがとうございます♪


    No30278に返信(時さんの記事)
    > こんばんは。少し書き込みをしたくなりました。
    >
    >>最高の知識を通って解放された人、
    >>彼らの道をマーラ(悪魔)は見つけることができない。
    >
    > 教えの知識と実戦で解脱の境地に至ったものの、その境地に至る道は、悪魔には見つけることができません。梵天が私の前から姿を消そうと言ったが消せなかった。次に私は、梵天の前から姿を消そうと言った。という仏典がありましたが、同じことでしょう。解脱(解放)は、仏陀の教えである四聖諦やその中の八支聖道という最高の知識や実戦による果報だという事ですね。
    >
    > 一切とは、十八界や世間等の事で、それはまだ有身であり悪魔の領域です。解脱の境地に至れれば、自由であり解放され、次世はありません。つまりは、輪廻の終焉ですね。後は、感官の防護により、肉体の死を迎えるまで一の矢を受けても二の矢は受けない心の状態で平穏に過ごすだけでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■30278 / inTopicNo.96)  Re[4]: ダンマパダ第四章・花(Flowers)57
□投稿者/ 時 -(2023/04/17(Mon) 02:13:09)
    こんばんは。少し書き込みをしたくなりました。

    > 最高の知識を通って解放された人、
    > 彼らの道をマーラ(悪魔)は見つけることができない。

    教えの知識と実戦で解脱の境地に至ったものの、その境地に至る道は、悪魔には見つけることができません。梵天が私の前から姿を消そうと言ったが消せなかった。次に私は、梵天の前から姿を消そうと言った。という仏典がありましたが、同じことでしょう。解脱(解放)は、仏陀の教えである四聖諦やその中の八支聖道という最高の知識や実戦による果報だという事ですね。

    一切とは、十八界や世間等の事で、それはまだ有身であり悪魔の領域です。解脱の境地に至れれば、自由であり解放され、次世はありません。つまりは、輪廻の終焉ですね。後は、感官の防護により、肉体の死を迎えるまで一の矢を受けても二の矢は受けない心の状態で平穏に過ごすだけでしょう。
引用返信/返信 削除キー/

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