| レヴィ=ストロースについては、『人類学的思考の歴史』の中に「構造主義人類学」のなかに記されています。一部書き写して見ます。
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p157− 【色、かたち、匂い、味わい、生態環境など、人びとは五感を通じて事物を観察し、他の事物と対立させながらその特性を同定し、体系のなかにとりくんでいく。かくして「人間は、直接与えられているもの(感覚与件)のレベルでの体系化というもっとも困難な問題にまずとり組んだのである」(ibid.:16)。このような感覚レベルでの分類や体系化の作業をレヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」と呼び、教育等を通じて与えられる「栽培された思考」に対する「野生の思考」の特徴と見なしている。そして、それは「未開」と称される人びとだけでなく、芸術家たちの創造活動のなかで強烈に生きられていることが示すように、現代にもあまねく存在すると主張するのである(ibid.:25-30)。 世界各地の人びとの、それも過去から現在までの分類作業のしなやかさと精緻さを明らかにしたこの『野生の思考』は、多くの人類学者に新鮮な驚きを与えた。しかも、その感覚特性にもとづく分類作業は、「かれら」のもとだけでなく、「私たち」のあいだでも作用していることを明らかにしたことで、議論の射程を一気に広げたのである。それまで人類学が対象としていたのは主として異文化の「他者」の実践であり、西洋的な基準からすれば理解しがたいかれらの制度や思考様式に、いかなる原理が働いているかを明らかにしようとしてきたのであった。これに対し、レヴィ=ストロースがめざしたのは、現代西洋の人間を含めた世界中の人びとの行動や思考の多くの部分が、いくつかの単純な原理から出発することで説明できることを示すことであった。かれは感覚レベルでの分類作業という原理を立てることで、一方でトーテミズムを説明し、他方で芸術家たちの創造の秘訣を明らかにしてみせた(23)。そしてそれによってかれは、かれが人間の思考の基本的な営みと考える分類作業と、さまざまな宗教的実践や社会組織などとを、関係づけて議論することの可能性を示したのである。】
注(23)〔レヴィ=ストロースは芸術家たちの創造と、かれらの作品の美的受容の経験とを、この感覚特性のレベルでの分類の原理によって説明している。「私が行っているタイプの分析は、まさに神話のうちに独自の本質をもつ対象(もの)…‥をあばき出そうという方向を取っているのですが、その対象はまさに、神話の物語りの中で、そして神話の物語りを通して行われる、感性的なものと…‥ほとんど数学的な方程式の形をとりうるような知性に把握されるメッセージとの合体において成立しているものなのです。われわれが感情とか感動とか呼んでいるものは結局のところ、つねにこれなのではないでしょうか?それが神話によって与えられるものではなくて、楽曲、画幅、あるいは彫刻によって与えられるものであったとしても、それは、ある感性に訴える布置の総体的な把握がわれわれに真向からおしつけるあの衝撃により、ある種の理解可能性への直接的参加であって、推論の入りくんだ路ではないのです」(レヴィ=ストロース1970(1974):274-275)。〕
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あと、竹沢さんは、 ******** p160− 【ところで、分類とは世界を理解するための第一歩であるから、分類されたものとは理解されたもの、秩序づけられたもののことなのである。これに対し、分類されないもの、分類秩序の外側にあるものとは、理解不能なもの、理解を超えたものである。ここから、分類外の要素は、ある場合には豚のように穢れた存在と見なされ、ある場合にはレレ社会のセンザウコウのように、並外れた力をもつ存在と考えられることになる。世界には、異質な身体的形状をした蛇をまつる蛇信仰は広く存在するし、ドラキュラの観念にしても、動物と鳥との中間的存在としてのコウモリに対するシンボリズムが背景にあるのは疑いない。分類とアノマリーという考え方は、ある特定の存在や事物がなぜ過大な象徴性を帯びることができるのかをうまく説明してくれるのである。 メアリ・ダグラスのこの研究が出されて以来、多くの研究が提出されたが、その多くはその基本図式を反復したものであった(24)(リーチ1970(1971)、Bulmer1967,Sperber 1975,Morris1976)それはいまでは人類学の基本認識のひとつになっているが、その出発点は、人間はつねに感覚与件のレベルでの分類をおこなってきたというレヴィ=ストロースの主張にあったのである。】 って言って。
注(24) ダグラスはその後、シンボリズムがしばしば人間の身体を媒介として成立しているとし、身体と外部との境界領域に位置する、アノマリー的なものとしての髪の毛や爪、睡、血などに関心を寄せた。これらは穢れたものとして忌避されるものであるが、その反面卓越した生命力を有するものでもある(ダグラス1970(1983))。ケガレ論から出発する関根康正も、これらの要素がケガレとされる反面、創造性や生命力を付与されていることを主張している(関根2004:40)。
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連休中に(つれずれなるままに)わたしが注目したところを書き写して見ました。
「人類学」って、昔の人はこういう生活をしてたんだ、的なんじゃないかしら? ん〜ん「民族誌学」なやつ?わたしもそうだったけど、レヴィとメルポンのおかげで見方かわった。
「人類学」って「人間学」なんだな〜って。
「人類学(人間学)」についてのここまでの、わたしの、またつれずれのときにするつもり。
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