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■20519 / inTopicNo.13)  Re[53]: 葬式仏教 2
  
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/25(Tue) 10:30:20)
    2022/01/26(Wed) 09:13:06 編集(投稿者)

    仏教の死生観と廻向の原理

    二つ目の問い、「葬式仏教は本来の仏教の考え方と合わないのか」を考える。前回書いたように最初期の仏教が輪廻を前提としていたかどうかについては、なお議論があるが、かなり早い時期から輪廻を前提としてそこからの離脱が仏教の核心となっていた。

    輪廻は業と深く結びついている。業というのはもともと「行為」という意味であるが、輪廻と結びつくと「行為の持つ潜在的な影響力」という意味になる。即ち、行為をなした時それで終わるのではなく、その影響力が残って行為をなした人に対してはたらくというものである。業の原則は、まず「自業自得」、それから「善因楽果、悪因苦果」である。この業の原則は現世で完結せず死後の来世が関わってくる。そこに業と輪廻が結びつく必然性がある。現世の幸不幸は前世の結果であり、現世の行為の結果が来世の幸不幸に結びつく。こうして生死が繰り返されることとなり、それを輪廻というのである。

    輪廻は、現世の業の結果は来世に現れるというシステムにより、六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を永遠に巡ることになる。不確かで危うい生き方が永遠に続くのである。またこの考え方は現世の不平等を合理化(いま不幸なのは前世で悪いことをしたからなのだ)する危険を持っている。そこで輪廻自体が苦として捉えられ、そこからの離脱が望まれることになる。それが解脱という境地である。輪廻からの離脱はインド宗教共通の課題であり、仏教では解脱した状態を涅槃、目覚めと呼ばれ、仏陀というのはこの目覚めに到達した人という意味である。

    仏教では無我を説くがこれはインドの主流の宗教思想とは異なる。主流の宗教では自己の根底にはアートマンという不変の霊魂があると考えるが、無我(アナートマン)というのは、アートマンを否定する。アートマンだと輪廻がわかりやすいが、無我だとすると何が輪廻の主体なのかわかりにくい。

    仏教では人は色受想行識の五蘊からなっていると説く。この五蘊が目に見えない微細な形を取り男女の愛欲に目をくらまされて母体に入るというのである(ここ、全然わかりません:田秋談)。煩悩によって強固なものにされた五蘊の塊は死によっても解体されずに輪廻を繰り返すのであり、これが苦のもとになる。ここから離脱し涅槃に至ることが切実な課題となった。

    初期仏教や部派仏教では業による輪廻はあくまでも自業自得であった。ところが大乗仏教なると大きな変化が起こった。それが菩薩という考え方である。菩薩は他者とともにあり、他者なくしてはあり得ないということであり、それ故「自利利他」と言われる様に、自分だけの利益ではなく他者の利益が求められなければならない。そのために自分の善行の結果を他者に振り向けることが必要になる。自分の労働の報酬を他者の収入として贈与するようなものであり、これを廻向と呼ぶ。特に相手が死者の場合は直接贈与できないので、廻向の原理が不可欠となる。

    業は自業自得が大原則であるが、大乗仏教では自業自得の原則を壊してまでも積極的に廻向を認める。しかしそうすることによって自他の区別が曖昧になる。そこで登場するのが「空」の理論である。「空」の思想は、二項対立的な様々な問題は言語によって作られたもので実体性を持たないと考え、その対立を超えるところに悟りの世界があると考える。生と死は根本的に対立するように見えるが実際はそれほどはっきりと分けられるものではない(特に来世があるとするならば、死は就寝とそれほど変わらないかも知れません:田秋談)。自他の区別も同様であり(やや強引?:田秋談)、必ずしも絶対的とはいえない。そこで空の理論を背景として自分の善行を死者に振り向けることができるようになり、死者供養が可能となる。

    このような考え方は東アジアや中央アジアで発展した。死者のための廻向は中国でも広く行われ、死後の供養も四十九日、一周忌、三回忌などが行われ、それぞれの時期に応じて裁きを行う十王が信仰された。日本では中国仏教を受けさらに新たな発展を示すことになった。

    つづく

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■20512 / inTopicNo.14)  葬式仏教 1
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/24(Mon) 13:25:42)
    パニチェさん、ディディモさん こんにちは
    時間ができたので、葬式仏教について書き始めました。長いので2〜3回に分けます。

     近代の葬式仏教 (文中、中世は江戸時代より前、近世は江戸時代、近代は江戸時代より後を指します)

    日本の仏教はしばしば「葬式仏教」と軽蔑的に呼ばれる。僧侶が葬式、墓守、法事をするだけでしかもそれが主たる収入源になっている実態を批判しているのである。仏教はそもそも死者のためのものではなく生者のためのものだという主張が明治時代からなされてきた。釈尊の教えはよく生きることを教えるものであって死後の問題は本質でない、葬式仏教は仏教を民衆に広めるための方便であり、輪廻思想さえバラモン教から取り入れたもので本来の仏教ではないとも言われている。

     それに対して二つの疑問点を挙げてみる。
    1. 現在の葬式仏教の形態は古くからの習俗なのか?
    2. 葬式仏教の考え方は仏教の考えに合わないのか?

    第一の問いに対しては肯定と否定の両面から答えられる。肯定的な答えは第二の問いと関わるもので、死者供養は早くから日本で行われており、それは大乗仏教の根源な思想と関連する。これは後に考える。否定的な答えは制度化された葬式仏教は比較的新しい形態である。まずは第一の問いから見ていくことにする。

    葬式仏教の儀礼的な形態は中世の禅宗の影響が大きい言われる。悟りを開いた僧が亡くなることを遷化と言うのに対し、修行中に亡くなった僧に対しては供養して悟りに到達できるように手助けが必要で、そうしないと迷ったままの状態になる(ここは詳しく書かれていませんが遷化した僧には供養は不要ということでしょうか)。この《供養》が在家の葬式に転用されたと言われる。それが中世後期に整備され、近世の寺檀制度の中で定着していく。
    寺檀制度には大きく2つの役割がある。一つはキリスト教の弾圧、もう一つが戸籍に相当する制度である。どちらも幕府の政策なので寺檀制度は広く浸透しその結果、葬式も仏教式となった。

    近代の葬式仏教は近世の寺檀制度がもとになっているとはいえ、近世とは異なる意味と性質を持つ。日本の近代は天皇を頂点とする国家体制を築いたが、その基礎となるのは家父長制度的なイエ制度である(近代日本の特殊な意味合いを込めてカタカナ表記する。またこのイエ制度は、近世に於いては庶民が姓を持つことが認められなかったこともあり家の継続というものに限界があった)。このイエ制度というのはイエを個人を超えて永続するものとして、長男が家父長として継続する制度である。相続の第一義は家督相続にある。このようなイエ制度は近世では武士や上流〜中流の農民にも広がっていたが、近代になると一般の庶民にまでそれを義務化し、そこに天皇中心の国家体制の基礎を置いた。大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。これは天皇家というイエが家父長制的に維持されてきたことを示している(現実は違うが)。この皇室の家父長制的な継承を定めたのが皇室典範である。この皇室をモデルとして国民もイエを基盤に相続することを定めた法体系が民法である。その民法を補完するものとして教育勅語が作られた。このようにイエというものが確立されていった。

    ところでイエのシンボルは先祖の位牌と墓である。葬儀を寺が担当したために家に仏壇を設けそこに位牌を安置した。墓地は元々必ずしも寺院内にあったものではないが、近世以来寺院が葬式を担当するようになり、寺院の敷地内に設けることが多くなった。明治の一時期神道中心政策が取られたが結局根付かなかった。一つには神道が葬式にはあまり興味がなかったことも一因としてある(神道は遺体そのものを穢れとみる)。廃仏毀釈や神道中心政策が取られ仏教は危機的な状況に陥ったが、結局それを乗り越え生き延びることができたのは、近代のイエ制度に巧みに適応し、のみならずそれを支える役割を果たしたからである。

    神道が国家神道化し一般庶民の葬祭に関わることができなくなった(明治政府は国家神道の立場から、明治15年に官幣社・国幣社の宮司が葬祭に関与することを禁止した)。その役割を仏教が担う事になった。このことは法制化されていることでもなく、また仏教界が特に狙ったことではなく、言わば「棚からぼた餅(田秋談)」であった。

    第二次大戦後家父長的天皇制国家体制は解体したが、暫くはイエの意識は残り、葬式仏教の形は継続したが1970年頃から核家族化が進み家の意識は薄れ少子化、高齢化の中、従来の葬式仏教は成り立たなくなってきた。儀式の簡略化、宗教を介しない直葬が広まり、墓も集合墓、永代供養、自然葬などが行われ従来の檀家制度の維持が難しくなり、寺院経済が成り立たなくなってきている。

    つづく

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■20507 / inTopicNo.15)  神とロゴス
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/23(Sun) 16:51:20)
    こんにちは、ディディモさん

    お返事ありがとうございます。以前ならディディモさんの書き込みを理解することはほぼ出来なかったと思いますが、半年《西洋哲学の起源》の講義を受けたお蔭で、興味を持って読むことができました。ありがとうございます。

    上記講義の試験問題は4〜5つ示された課題から一つ選んで記述する方式で、何故ボクがロゴス辺りを選んだかというと、キリスト教の中でギリシア哲学がどのような役割を持ったのかに興味を持ったからです。ロゴスが次第に神そのものになって行ったのは何故か?それは教義の理論づけに哲学が有効だったからではないか?と思いました。そういう観点から答案を書きました。

    書きたいことと何故そういう結論に至ったのかを800字で書くのに大変苦労しました。挙句、結局舌足らずな文章になってしまいました。論点をもっと絞らないといけないんでしょうね。因みにディディモさんの書き込みは3500字くらいです^^

    以下はボクの答案です。成績が出て、良かったら(^^)お知らせしまつ。

    ローマ帝国からの迫害を受けながらも弟子たちの熱心な宣教により地中海全体に広まる中、キリスト教は古代ギリシア哲学と出会う。宗教と哲学という異なる様で似ている部分を持つ世界の融合、具体的に言えばキリスト教陣営にヘレニズム的教養を備えた知識人が加わったのだ。彼らは教父と呼ばれ、ギリシア哲学とキリスト教の統合を目指した。この両者は世界と人間の存在理由を根源的に意義づける世界観を持つという共通項を持ち、キリスト教は神を絶対的な存在として位置付ける点で哲学と異なる。一方ギリシア哲学には自然現象の生起を支配する法則であるロゴスという概念がありこれが神と結びついていく。

    キリスト教の本質は「イエスはキリストである」という信仰告白を証言し続けることにあり、信徒はこの物語の一義性を保つために全精力を傾注してきた。またこの物語を信じ受け入れることが信仰である故、教父たちは物語がより信じ得るものとなるよう努めた。それがロゴスと神とを結びつけることになり、その結果が教義の確立として実っていった。

    初期教父であるフィロンはユダヤ教徒であり、聖書に記された世界創造の物語を合理的に説明しようとした。彼は神と世界を媒介するものとしてロゴスを導入した。ユスティノスは様々な哲学を学んだあとキリスト教と出会いキリスト教こそ真の哲学と確信した。彼によれば哲学者たちが発見した幾つかの真理は神によって蒔かれた「種子的ロゴス」であった。クレメンスはイエスにおいてロゴスが完全な姿で現れたと考えた。人間の知性は神的ロゴスに従って形作られたものであるが故に神的ロゴスを分有すると考え、知性に信頼を置いた。ニュッサのグレゴリオスは、人間の魂は聖書の啓示を通じロゴスであるキリストによって神への愛に駆り立てられ神との同化に向けて無限に前進していくと考えた。教父たちの弛みない思索により神とロゴスとの一体化が成し遂げられたのである。(795字)

    ===
    講義は中世15世紀位までが範囲でしたが、哲学の講義でありながら中盤〜終盤ではキリスト教がかなりのウエイトを占めており、キリスト教の影響は大きいのだと思いました。宗教と哲学、この両者、少なくとも人間の生き方を考えるという点では非常に近い所にいると感じました。そしてキリスト教は哲学を《本質》ではなく《道具》のように捉えていたような気がします。それに対して哲学者は不満が溜まっていったのでは?とも感じました。
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■20504 / inTopicNo.16)  Re[52]: 神のことば
□投稿者/ knowing itself -(2022/01/23(Sun) 15:11:51)
    「思い出してください。聖書の初めから終わりまで述べられているのは、神の一つの同じみことばです。すべての聖書記者の口から響き出るものは、一つの同じみことばです。そのみことばは、初めから神のもとにおられる神として時間的な存在ではないから、音節を必要となさいません」アウグスチヌス『詩編講解』


    代表的な教父アウグスチヌスの発言です。アウグスチヌスはプロテスタントへよ影響も非常に強いです。
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■20502 / inTopicNo.17)  訂正
□投稿者/ ディディモ -(2022/01/23(Sun) 11:05:41)
    前の投稿にヨセフスとフィロンの著作の画像を貼り付けようと何度も試みたのですが、出来ませんでした。

    冷静になって考えてみると・・ファイル形式が不適でした!

    いかに冒頭の「このトピックに書き込む」を読んでいなかったかバレました。(~_~;)


    それと訂正。

    少し誤解を与える表現がありました。
    前の投稿の中ほどにシラ書に言い及んでいる、この↓箇所です・・

    【シラ書は旧約と新約との間にある典外書(外典)ですから、ヘブライ語で書かれた旧約の箴言とは異なりギリシャ語が本文で、知恵(ヘブライ語のホクマー)はギリシャ語に訳されてソフィアとなっております。】

    ここ↑であえて「原文」ではなく「本文」と書いたのは、シラ書は元々イェススなる人物が書いたヘブライ語の原文は散逸して、その孫がギリシャ語に訳したものが現在の聖書の本文になっているという事情があります。

    シラ書は聖書には珍しく長い序言が付いておりますが、その翻訳の過程もそこに書かれております。ヘンな日本語になってごめんなさい
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■20501 / inTopicNo.18)  神のことば
□投稿者/ knowing itself -(2022/01/23(Sun) 08:57:11)
    おはようございます。横レス失礼します。もちろんスルーされてオーケーです。

    ヨハネ福音書1・1の「はじめにことばがあった」の解釈はとてつもない影響力をヨーロッパ文明全体に与えてきました。。哲学や科学、音楽や文学などの芸術を含めてです。単純に語ることはもちろんできませんが、少しだけコメントさせていただきます。

    はじめに「ことば」があったというのは、かたまりや対象、客体として「ことば」があったということではないと思います。イデア的な抽象体としてもそういうものはここでの「ことば」ではない。ここで「ことば」というのはもちろん「神のことば」ですが、神が形を与えた神のことば、語られた神のことばではないでしょう。日本語より英語で説明した方がピンとくるかとしれませんが、いうならば永遠の現在進行形としてのSpeakingというべきなのが「ことば」すなわち「神のことば」、あるいは「みことば」。

    話す内容や話す具体的な「ことば」ではなくSpeakingが宇宙の初めてにあったというか。もちろんSpeakingは具体的な内容をもつ「語」speakしますが、そのspeakは徹頭徹尾ロゴスに支配されている、理法の究極がそこにある。

    Speakingの話者はもちろん神ですが、Speakingそれ自体も神の完全なる写しとみていい、両者は同一の神なんだと。これが三位一体論だと思います。
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■20500 / inTopicNo.19)  Re[50]: 春休み
□投稿者/ ディディモ -(2022/01/22(Sat) 23:14:16)
    こんばんは田秋さん。

    >ディディモさんにお聞きしたいのですが、古代ギリシア哲学の《ロゴス》という概念に対してディディモさんはどういうイメージをお持ちでしょうか?キリスト教成立以降、教父たちがヘレニズム文化をキリスト教に組み入れていったとのことでなのですが、その辺りで果たしたロゴスの役割についてお考えをお聞きできればと思います。<

    わたしは古代ギリシャ哲学についても、またギリシャ語についても・・ほとんど無知です。ただ古代のユダヤ人の方については、ディレッタント(好事家)が持つ程度の興味があって、色々調べたこともありますので・・その後者からの見方、つまり私にユダヤ贔屓という偏向があるということを御承知おきの上でカキコさせて頂きます。^^;

    結論から言いますと、古典ギリシャ語の《ロゴス》の意は多くありますが、大別すれば「言葉」と「理性」の二つの意味の系統があると言われています。
    しかし、旧約聖書(原文はヘブライ語で書かれており、古代にギリシャ語に訳されたものを七十人訳聖書と呼びます)でも、また新約聖書(こちらは元々ギリシャ語)でも、原則として《ロゴス》は「言葉」の意味だけに用いられており「理性」(とそのコロニー<系>)の意味で用いられることはまずありません。ここに私はギリシャとユダヤの間に、その《ロゴス》に対する哲学概念の違いを見出します。

    つまり、以前の投稿でヨハネ伝の「太初(はじめ)に言葉あり」を取り上げましたが、この「言葉」の原語は《ロゴス》でしたね。「太初(はじめ)にロゴスあり」ですよね。しかしそこにギリシャ語の《ロゴス・理性》というもう一つの意味があるかといえば、微妙な余地を残しながらも「ほとんどない」と言って良いでしょう。

    何故かと言えば・・
    前の投稿で、旧約の知恵文学におけるホクマー(知恵)という用語と、新約のヨハネ伝の冒頭におけるロゴス(言葉)という用語が両方とも擬人化されていると・・その関連性を指摘しました。すなわち以下の文章で知恵(ホクマー)を言葉(ロゴス)と読み替えても違和感がないことを指摘したんですが、それを実際にやってみると分かり易いです。(以下は箴言の原文の「知恵」を→「言葉」に読み替えています)

    【言葉は、ちまたに呼ばわり、市場にその声をあげ、城壁の頂で叫びーー略ーー言葉は自分の家を建て、その七つの柱を立て、獣をほふり、酒を混ぜあわせて】(箴言1:20以下と同9:1以下からの読み替え)

    仮にこの↑ような文言を古代ギリシャの哲学者に示したら・・きっとヘブライズムを知らない彼氏は目を白黒するに違いありません。彼にとってのロゴス(理性、系として分別あるもの)が獣を喰らい、酒盛りをしている!・・こりゃ魂消た、と。^^;;ですから私は先程【その《ロゴス》にギリシャ語の《ロゴス・理性》の意味の方があるかといえば、ほとんどない】と述べたのです。

    その点、あの機敏なアラビアのロレンスは、旧約聖書をよく読んでヘブライズムを理解し、自著に「知恵の七柱」という題名を付け、映画も大ヒットさせております。←これは余談ですが。(^^)

    またシラ書ではロゴス・ソフィア論が創造論に絡んできます。
    【すべての知恵(ソフィア)は主から下る、それは常に神の傍(かたわら)にある・・・知恵(ソフィア)はあらゆるものに先んじて創造された】(シラ書1:1以下)
    とあります。シラ書は旧約と新約との間にある典外書(外典)ですから、ヘブライ語で書かれた旧約の箴言とは異なりギリシャ語が本文で、知恵(ヘブライ語のホクマー)はギリシャ語に訳されてソフィアとなっております。

    で、問題はそのソフィア(知恵)がいつどのようにしてロゴス(言葉)になったのか?です。

    それはおそらくユダヤ人哲学者フィロン(前25年〜後50年)に依るものと考えられます。彼はヘレニズム文化の大拠点地であるアレクサンドリアに住む学者ですから当然ギリシャ哲学にも造詣が深い・・ので、彼の業績を極力ひらたく言うとすれば、ユダヤ教をギリシャ哲学で説くことをした・・ということです。すなわち神の言葉(ロゴス)が天地を創造し、世界に生命と目的と法則を与えた・・と説いたのです。これは当然創世記第一章(ヘブライズム)が頭にあっての言説です。その1−3に「神が『光あれ』と言うと、光があった」と記されていますが、これはつまり天地開闢のおりにまず「光あれ」という「言葉」があったことを示しております。まさに「太初(はじめ)に言葉あり」ですよね。この言葉は神の口から生まれたので被造物ではなく、いわば被造物を作り出す《ロゴス》です。

    この場合、神が「光あれ」と発した言葉は神そのものと考えても矛盾しません。神と言葉は一体化しています。一見、神の口から出た「言葉(ロゴス)」も「知恵(ソフィア)」も、神から出たという点では神とは別に見えるかも知れませんが、「光あれと言うと光があった」のなら、すなわち言葉と光が同時存在にあるのなら『光あれ』は『光と同一』であると言っても良く、これは発した『言葉』はそれを発した『者』と同一であるということを意味し・・すなわち言葉は神なんです。
    ちなみにヨハネ伝でも《言葉》の次に《光》が来て「この方は命を持ちこの命が人の光であった」となっています。

    おそらく、フィロンが説いたこの「神の言葉(ロゴス)」は、ヘブライズムとストア派の「種子的ロゴス(ロゴス・スペルマチコス)」が結びついたのが始まりではないかと個人的には思っています。(種子的ロゴスとは、ロゴスが生き物である宇宙の内に含まれる種子としてあり、宇宙は一つのロゴスによって生成し、これによって一つとして保持され、結ばれているとするもので・・また自然と宿命を含む世界それ自体を、いわゆる神に模しているような印象を私に持たせます。ふむ、ギリシャ哲学に創造(生成)とか神が出て来たぞ・・それならヘブライズムとも接点が出て来たな、と。ちょっと安易かぁ・・^^;・・あぁ、最初に言ったように、ここらあたりは哲学オンチの私の印象論にすぎません・・悪しからず。(^^)!

    ということで、田秋さんの質問とは掛け違いのレスになってしまいました。ご質問の中に《キリスト教成立以降、教父たちがヘレニズム文化をキリスト教に組み入れていった》とありますが、この事に私はお答え出来ていません。
    答えることが出来なかったのは、田秋さん仰るキリスト教成立以降のこと(つまりキリスト教史)について私に知識・興味がなかったからです。逆に私が興味があるのは、キリスト教が成立する以前のイスラエルのことです。ダビデ・ソロモンの統一国家から分裂、衰退、バビロン捕囚、ユダヤ教の成立、神殿崩壊、滅亡・・と様々な事柄があって、その後にようやく新約聖書とキリスト教の成立がくるのですが、せいぜいその紀元後一世紀までのことには興味がありますが、それ以降のことになると私の脳内知識は空っぽになってしまいます。ですから教父と言われるとギョ!とします。えーと教父には誰がいたかな?状態です。聖書に書かれていること、つまりイエスに遣わされた使徒ならまぁ知っていますが、使徒教父となるとだんだん怪しくなり、教父ともなるともうお手上げです。^^;つまり新・旧約聖書とアポクリファ(外典)という、ヘブライズムが書かれたもの・・これが私の守備範囲です。聖書に関する事とキリスト教に関する事は別物と考えた方が良いです。

    このほど私が取り上げた「箴言」は、その中に書かれているアフォリズム自体は古いものもありますが、書物としては旧約聖書のなかでも比較的末期に最終編集され成立したものです。また「シラ書」にしても旧約聖書と新約聖書との中間期に成立しており「箴言」よりさらに新しいものです。つまりこれらの「知恵文学」といわれるものはアレキサンダー大王の東征以降に成立した書物だということです。ヘレニズムからの影響は受けているでしょうね・・。もともと一神教のヘブライズムと多神教のヘレニズム宗教・哲学観は相いれないものでしたが、覇権を握ったギリシャ、その後継者のローマの文化や文学にイスラエルが影響を受けたことは如何ともし難い事実です。(最後は彼らに国を滅ぼされ、二千年間世界を彷徨うディアスポラの民となりましたが・・。)

    ただ今日はヘブライズムとヘレニズムの間に立って苦闘したユダヤ人としてフィロンをあげましたが、もう一人重要なユダヤ人がいます。それはヨセフスです。私はこの人物が知りたくて彼の全著作はもとより評伝の類まで3年をかけて読みまくり調べまくりしました。彼の著作に「アピオーンへの反論」がありますが、これはアンチ・セミティズムの元祖と言って良いほどのギリシャ人、アピオーンに対する反駁書です。ヨセフスによるとギリシャの哲学者などはバビロニアやエジプトの思想家の亜流で、皆がモーセの剽窃者だとこき下ろしています。パチパチパチ!。冒頭の「偏向があるということを御承知おきの上で」という台詞に・・ご注意を。!(^^)!
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■20483 / inTopicNo.20)  春休み
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/20(Thu) 19:34:08)
    こんばんは、floraさん、ディディモさん

    今日試験問題の解答を提出し何はともあれ試験が終わりました。来学期は4月からで2ヶ月余りの春休みです。

    floraさん、お仕事で忙しいんですね。忙しいという事は、いいことですね!?
    ディディモさんもお忙しそうで何より、大人のオモチャって何かと想像してしまいましたがスマホでしたか!^^

    ディディモさんにお聞きしたいのですが、古代ギリシア哲学の《ロゴス》という概念に対してディディモさんはどういうイメージをお持ちでしょうか?キリスト教成立以降、教父たちがヘレニズム文化をキリスト教に組み入れていったとのことでなのですが、その辺りで果たしたロゴスの役割についてお考えをお聞きできればと思います。
    今までは試験期間中だったので聞けませんでしたが、今日解答用紙を提出したので心置きなく聞けます^^

    宜しくお願い島忠



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■20475 / inTopicNo.21)  寂しき玩具
□投稿者/ ディディモ -(2022/01/19(Wed) 23:04:34)
    皆さん、お忙しそうですね。
    実は私も忙しいんです・・大人のオモチャで遊ぶことに夢中になっていますので。

    ついに私にも年貢の納め時がやってきたようです・・そう、とうとう・・ガラケーからスマホに乗りかえたんです!先日からガラケーが不調でした・・まぁどっちにしてもあと数年で廃止だしい、と。。

    毎日が取扱説明書と首っ引きでスマホと格闘しています。前々日はメーカーのカスタマーセンターに電話して・・あれこれ教えてもらいました。最後には理解できましたが、危ういところで諦めて電話を切ろうとしたりしました。粘って良かった。!(^^)!

    格安スマホにするかキャリアにするか、直前まで迷いに迷ったんですが・・結局キャリアにしました。1年目が千円ほどで2年目からは千六百円ちょいという安さ・・この設計なら!・・と決断しました。もちろんオプションは一切なし!

    まぁ、しばらくこれで遊びますぅぅ・・。!(^^)!


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■20472 / inTopicNo.22)  アオサギ
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/19(Wed) 15:42:04)
    おはようございます、floraさん

    ふと外をみるとこのような鳥がいました。友達に写真を送るとすぐにアオサギじゃないか?という返事がありました。図鑑の鳥とよく似ていたので間違いないと思います。うちで初めてみましたが田んぼなどにもいるそうなので気晴らしで飛んできたのかも。見るからに寒そうでした。

    字数制限のある記述式の課題というのは、その学科の知識よりも国語的な、特に文章の構成力が一番試されるのではないかと思います。少ない字数で濃い内容にするのは凄く難しいです。ぱっと書いて決められた字数でまとめるのって苦手です。
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■20460 / inTopicNo.23)  Re[46]: 試験期間中
□投稿者/ flora -(2022/01/18(Tue) 16:05:46)
    田秋さん、おはようございます。

    私も仕事に忙殺され投稿できないでおります。(-_-;)

    試験頑張ってくださいね!
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■20455 / inTopicNo.24)  試験期間中
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/17(Mon) 22:32:57)
    こんばんは、floraさん

    試験期間真っ最中です。選択問題は終わり記述式も目処が見えてきました。記述式は2問あり、一つは中世キリスト教の教父時代(古代ギリシア哲学とキリスト教の融合)についてと領事裁判権撤廃についてです。1問目はロゴスと神の関係(実はよくわかっていない)を書き、領事裁判権は頭の中で構想が出来ました。こちらの方が理解できます。締め切りは21日です。ばんがる!
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