| 2022/01/26(Wed) 09:13:06 編集(投稿者)
仏教の死生観と廻向の原理
二つ目の問い、「葬式仏教は本来の仏教の考え方と合わないのか」を考える。前回書いたように最初期の仏教が輪廻を前提としていたかどうかについては、なお議論があるが、かなり早い時期から輪廻を前提としてそこからの離脱が仏教の核心となっていた。
輪廻は業と深く結びついている。業というのはもともと「行為」という意味であるが、輪廻と結びつくと「行為の持つ潜在的な影響力」という意味になる。即ち、行為をなした時それで終わるのではなく、その影響力が残って行為をなした人に対してはたらくというものである。業の原則は、まず「自業自得」、それから「善因楽果、悪因苦果」である。この業の原則は現世で完結せず死後の来世が関わってくる。そこに業と輪廻が結びつく必然性がある。現世の幸不幸は前世の結果であり、現世の行為の結果が来世の幸不幸に結びつく。こうして生死が繰り返されることとなり、それを輪廻というのである。
輪廻は、現世の業の結果は来世に現れるというシステムにより、六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を永遠に巡ることになる。不確かで危うい生き方が永遠に続くのである。またこの考え方は現世の不平等を合理化(いま不幸なのは前世で悪いことをしたからなのだ)する危険を持っている。そこで輪廻自体が苦として捉えられ、そこからの離脱が望まれることになる。それが解脱という境地である。輪廻からの離脱はインド宗教共通の課題であり、仏教では解脱した状態を涅槃、目覚めと呼ばれ、仏陀というのはこの目覚めに到達した人という意味である。
仏教では無我を説くがこれはインドの主流の宗教思想とは異なる。主流の宗教では自己の根底にはアートマンという不変の霊魂があると考えるが、無我(アナートマン)というのは、アートマンを否定する。アートマンだと輪廻がわかりやすいが、無我だとすると何が輪廻の主体なのかわかりにくい。
仏教では人は色受想行識の五蘊からなっていると説く。この五蘊が目に見えない微細な形を取り男女の愛欲に目をくらまされて母体に入るというのである(ここ、全然わかりません:田秋談)。煩悩によって強固なものにされた五蘊の塊は死によっても解体されずに輪廻を繰り返すのであり、これが苦のもとになる。ここから離脱し涅槃に至ることが切実な課題となった。
初期仏教や部派仏教では業による輪廻はあくまでも自業自得であった。ところが大乗仏教なると大きな変化が起こった。それが菩薩という考え方である。菩薩は他者とともにあり、他者なくしてはあり得ないということであり、それ故「自利利他」と言われる様に、自分だけの利益ではなく他者の利益が求められなければならない。そのために自分の善行の結果を他者に振り向けることが必要になる。自分の労働の報酬を他者の収入として贈与するようなものであり、これを廻向と呼ぶ。特に相手が死者の場合は直接贈与できないので、廻向の原理が不可欠となる。
業は自業自得が大原則であるが、大乗仏教では自業自得の原則を壊してまでも積極的に廻向を認める。しかしそうすることによって自他の区別が曖昧になる。そこで登場するのが「空」の理論である。「空」の思想は、二項対立的な様々な問題は言語によって作られたもので実体性を持たないと考え、その対立を超えるところに悟りの世界があると考える。生と死は根本的に対立するように見えるが実際はそれほどはっきりと分けられるものではない(特に来世があるとするならば、死は就寝とそれほど変わらないかも知れません:田秋談)。自他の区別も同様であり(やや強引?:田秋談)、必ずしも絶対的とはいえない。そこで空の理論を背景として自分の善行を死者に振り向けることができるようになり、死者供養が可能となる。
このような考え方は東アジアや中央アジアで発展した。死者のための廻向は中国でも広く行われ、死後の供養も四十九日、一周忌、三回忌などが行われ、それぞれの時期に応じて裁きを行う十王が信仰された。日本では中国仏教を受けさらに新たな発展を示すことになった。
つづく
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