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■20175 / inTopicNo.1)  Re[45]: 宗教と「支配欲」
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/31(Fri) 09:20:04)
    若い頃、マルクス・フロイト・ニーチェという現代思想の源流トリオにハマったことがあるが、彼らがいいたいことは、人間の支配被支配の関係性を解体することなのではと単純化することもできるか。結局、彼らはキリスト教の系譜につながると解釈することも可能かな。
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■20174 / inTopicNo.2)  宗教と「支配欲」
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/31(Fri) 09:09:34)
    横レス的な書き込み失礼します。

    支配欲と仏教やキリスト教についてなら、支配欲の消滅をゴールにするのが仏教やキリスト教でしょう。

    支配欲があるかぎり、苦からの解放はないというのが教説の基本にあるのが仏教。貪り、煩悩としての支配欲。

    キリスト教はどうかというと、神や聖職者の支配にひれ伏す、神の支配に服従するのが教えだと理解するなら、それはまったくの誤解。人間の間から「支配欲」をなくすことがゴールです。神が人間として受肉するなら、その人間には「支配欲」がゼロ。人間関係における「支配欲」こそが罪の実体といっていいくらい。「支配欲」のある人間は絶対に神たりえない、人間同士で「支配欲」を温存させたまま、神なる支配者を利用することにノーをつきつける。

    「三位一体」という究極のキリスト教真理は、いかなる人間三者の間にも、支配被支配の関係があってはならないというゴールを指し示す。



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■20167 / inTopicNo.3)  Re[43]: 『減苦』と『滅苦』
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/12/30(Thu) 20:30:58)
    仏教とかキリスト教って、

    わたし、「支配欲」の塊としか思えない。

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■20164 / inTopicNo.4)  『減苦』と『滅苦』
□投稿者/ pipit -(2021/12/29(Wed) 23:08:45)
    感想その後を書きます。

    煩悩を滅尽して悟ってたら食べ物がなくても苦しみは生まれないのかもしれませんが、
    悟ろうという願いだけで悟れるわけではないと思います。

    悟ってない人には食べ物がなかったらすごく苦しいと思います。
    悟ってない人が食べ物を手にできたら、その時生じていた苦しみは少しでも減ると思います。

    苦しみを減らしていくこと(減苦)と、苦しみを滅尽すること(滅苦)と、その両方について思いが浮かびます。

    岩波文庫になって市販されている経典を読んでみました。
    『ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤT』中村元先生訳
    p145の箇所が目に止まりました。
    お釈迦さまの発言の一部分を抜粋引用します。
    最後四行が段落が下がってるのは、原文が多分、詩偈となってるからなのかな?と思いました。

    『友よ。わたしは、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。
    そうではなくて、意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。
       歩行したからとて、いつになっても世界の終極に達することはできない。
       世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。
       それ故に、世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。
       かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、この世をもかの世をも望まない」と。』




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■20163 / inTopicNo.5)  Re[41]: 仏教について
□投稿者/ pipit -(2021/12/29(Wed) 20:30:17)
    つばめさんへ
    こんばんは (^ ^)

    私見ですが、いろんなことを『抜苦』か否かという視点で見ていく見方もあるかも、と、思いました。

    わたしが読んだ仏教のおぼうさまの言葉で、
    『では、どうすれば?』というのを智慧の言葉として覚えておくといい、みたいなのが記憶にあります。

    いろんな段階の抜苦があるとpipit自身は思っています。

    おやすみなさいです。☆彡




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■20162 / inTopicNo.6)  Re[40]: 仏教について
□投稿者/ つばめ -(2021/12/29(Wed) 19:01:04)
    続き

    心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、
    渇愛はつねに不満を伴うというのがゴーダマの悟りだった。
    心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。
    快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。
    したがって心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。
    痛みのような不快なものを経験したときには、これが非常に明白になる。
    痛みが続いているかぎり、私たちは不満で、何としてもその痛みをなくそうとする。
    だが、快いものを経験したときにさえ、わたしたちはけして満足しない。
    その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする。
    人々は愛する人を見つけることについて何年も夢見るが、見つけたときに満足することは稀だ。
    相手が離れていきはしないか不安になる人もいれば、
    大したことのない相手で良しとしてしまったと感じ、
    もっと良い人を見つけられたのではないかと悔やむ人もいる。
    周知のとおり、不安を感じながら悔やんでもいる人さえいる。
     
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■20161 / inTopicNo.7)  Re[39]: 仏教について
□投稿者/ つばめ -(2021/12/29(Wed) 18:05:24)
    ゴーダマは29歳の時に家族も財産も後に残して、夜中に応急を抜け出した。
    住む場所もない放浪者としてインド北部を歩き回り、苦しみから逃れる方法を探した。
    修行所をいくつも訪ね、聖者の教えを乞うたものの、完全には解脱できなかった。
    つねに何かしら不満が残るのだった。
    だが彼は絶望しなかった。
    完全な解脱の方法を見つけるまで、苦しみについて独自に吟味することを決心した。
    そして、人間の苦悩の本質や原因、救済の探求に6年を費やした後、ついに、
    苦しみは不運や社会的不正義、神の気まぐれによって生じるのではないことを悟った。
    苦しみは本人の心の振る舞いの様式から生じるのだった。

     (サピエンス全史 ユヴァル・ノア・ハラリ著より)


    ☆☆☆☆☆

    う〜〜ん。考え込んでしまった。
    確かに苦しみは「心の振る舞いの様式」から生じるのだろうとも思う。
    枯れ尾花が幽霊に見えるのはその人の心のふるまいの様式だろう。

    でも・・・
    でもね、豊かで安全な社会に生まれる子どももいるけど
    飢餓と戦争が日常の世界に生まれる子供もいる。
    飢餓が日常な世界に生まれてしまったら、
    飢餓の状態から逃れたいと渇望するのは、
    間違っているのだろうか。
    「間違っている」というよりも、より「苦しみ」を招く心の振る舞いで
    できたら避けたほうが良い望み(渇愛)なのだろうか。

    ・・・などと考えてしまいましたが、素直に(ぐちぐち言わず)先に進みます。

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■20133 / inTopicNo.8)  ヴェーダーンタ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/26(Sun) 10:18:39)
    超越論的存在、簡単に言えば神仏を自己の外(客体)として観るか、自己の内に観るかの違いは大きい。

    仏教のルーツでもあるヴェーダーンタを起点とする宗教は後者である。

    キリスト教には神の宮という教説もあるが、あくまでも客体の神が主で自己の内にある神の宮は主従の従、神道で言うところの分社あるいは分祠みたいな扱いでしかない。

    根源的存在も世界を創造したのも一神教では外なる神である。
引用返信/返信 削除キー/
■20132 / inTopicNo.9)  仏教について
□投稿者/ つばめ -(2021/12/26(Sun) 09:45:23)
    気ままに抜粋させていただきます。
      (サピエンス全史 ユヴァル・ノア・ハラリ著より)

    【自然の法則】

     これまで論じてきた宗教はみな、重要な特徴を一つ共有している。
    どれも、神あるいはそれ以外の超自然的存在に対する焦点を当てているのだ。
    西洋人はおもに一神教や多神教の教義になじんでいるので、これは明白に思えるだろう。
    だが実際には、世界の宗教史は煎じ詰めると神々の歴史にはならない。
    紀元前1000年紀には、まったく新しい種類の宗教がアフロ・ユーラシア大陸中に広まり始めた。
    インドのジャイナ教や仏教、中国の道教や儒教、地中海沿岸のストア主義やキニク主義、エピクロス主義は、神への無関心を特徴としていた。
     これらの教義は、世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物であるとする。
    自然法則を重んじるこれらの宗教のうちには、依然として神の存在を維持するものもあったが、その神々は人間や動植物同様、自然の諸法則に支配されていた。
    ゾウやヤマアラシと同じで、神々は生態系の中にニッチを持っていたが、やはりゾウと同じで自然の法則を変えることはできなかった。
    最たる例が、自然法則を信奉する古代宗教のうちでもっとも重要な仏教で、仏教は今なお、主要な宗教の一つであり続けている。

    ☆☆☆☆☆☆

    面白いと思う。

    ストア主義やキニク主義、エピクロス主義・・・って何だろう、どんな考えだろうという興味もわく。

    この下りの前に記載されていた一神教や多神教の(人と取引する)神、あるいは神々の内では、
    個人的にはプロテスタントの神がいいなぁと感じています。


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■20112 / inTopicNo.10)  Re[37]: 独り言です 冬の雨
□投稿者/ つばめ -(2021/12/25(Sat) 17:55:28)
    朝だけ降る雨は
    まるで
    恵みの雨のようだ

    雨の上がりに
    日の光が差したりすると
    世界が美しく感じられる

    希望や喜びは案外気づかぬうちにやって来て過ぎていくものなのかもしれない

    そうだ
    光を追い求めるのはやめよう

    彼らは来たいときに
    自分からそっとやって来るから
引用返信/返信 削除キー/
■20111 / inTopicNo.11)  独り言です 冬の雨
□投稿者/ つばめ -(2021/12/25(Sat) 17:52:09)
    朝、目覚めて雨が降っていることに気づくと心が落ち着く
    どうしてか?ってさっきから考えているのだけれど
    分からない

    雨の音も心地よいし
    雨に濡れている外の景色も楽しい

    今日出かけることを考えても
    それは晴れた日のほうが手間はないけれど
    雨でも別にいいや、って感じ

    ・・・でも本当は
    こんな素敵な雨の日は一日中家にいて
    描きかけのアザラシの絵に色を付けたい、・・・
    って思っているみたい

    雨の日には永遠を感じる
    無数の雨粒が休みなく降り注ぎ

    その完全なる一粒一粒が
    一つ一つに世界を映す

    「お父さん。どうして雨は降ってくるの?」
    幼いころ聞いた問いの答えに
    私、
    やっぱり納得してないみたい
引用返信/返信 削除キー/
■20098 / inTopicNo.12)  パニさんへ。
□投稿者/ エフニ -(2021/12/24(Fri) 22:04:51)
    >今回も、これ絶対偶然ではないと思います。<

    私もパニさんの立場だったら、絶対に驚くと思います。

    私は思い付くままに書いているのですが、何かが同調しているのでしょうね。

    >デジャビュじゃぁあああ〜ァ<

    なんかクリスマスの夜に、私も嬉しいです
引用返信/返信 削除キー/

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