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■18441 / inTopicNo.73)  Re[27]: Z 第一部 説話[16]
  
□投稿者/ みのり -(2021/11/06(Sat) 14:02:50)
    No18411に返信(パニチェさんの記事)

    > ここで声を大にして言いたいのは。。。
    > 大ベストセラーになった白取氏の「超訳 ニーチェの言葉」はニーチェの言葉ではなく白取氏によってリンゴとハチミツをぶっかけたハウスバーモンドカレーの大甘口であって、もともとのカレーの辛さが微塵もない白取氏の言葉だということです。
    >
    > 炭酸抜けた砂糖水のようなコーラ。
    > こんなもんをニーチェと思っとたら火傷するで。
    > 大衆受けする書籍、悪臭を放つ言葉。
    > 大衆迎合はニーチェが最も軽蔑した発想じゃぁああああ!
    >
    > すみません、ついつい暴走しますた。。。。(爆)


    白取さんの本は、『ツァラトゥストラ』の読解をする前に読みながら投稿もしたのですが、その本とはまた違う『ニーチェ[超]入門』でした。
    タイトル忘れてたので今、確認してきました。

    『超訳 ニーチェの言葉』は読んでないのでなんともなんですが、そんなに激甘なんですか。(^▽^;)
    たしかベストセラーだったとか。

    ニーチェにとても詳しい方からすれば物足りないんだろうな、と思うけど、また別の角度から考えてみると、それを読んで生きる勇気をもらえた、というような人もいたかもしれないし、それはそれでかな、と。

    こうしたことはニーチェに限らず思います。
    その人の能力に応じた内容で、入門書だったりもっと簡単な漫画のようなものであっても、その人にとって何か役に立ち、物の観方が変化したりすればそれでいいのかな、って。

    そして。頭って使っていくうちに進化もある程度は可能みたいなので、簡単なものから始めて、次第に難易度を上げていく、そうした中で達成感を得られればその人にとって良いギフトであるように思います。


引用返信/返信 削除キー/
■18411 / inTopicNo.74)  Re[26]: Z 第一部 説話[16]
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/06(Sat) 09:09:55)
    No18408に返信(みのりさんの記事)

    > 何か弱点、欠点があるほうが人間味があっていいと思います。
    > ただ、私は若くないので、ニーチェの女性観も何か可愛らしささえ感じるのですが、

    さすがです!
    ニーチェは逆に良き母性愛を持つ女性をくすぐりますね、きっと。

    > 若い女性は引くかもしれないですね。

    はい、思いっきり引くと思いますし、若い女性でない、わしも引きます(爆)

    > もっと硬い内容ばかりを想像していたのですが、実際には、和訳された文章の雰囲気は多少硬くても、生きていく上での糧になるものが多いです。
    > ニーチェが人気があるのが、自分のところで理解できました。

    ここで声を大にして言いたいのは。。。
    大ベストセラーになった白取氏の「超訳 ニーチェの言葉」はニーチェの言葉ではなく白取氏によってリンゴとハチミツをぶっかけたハウスバーモンドカレーの大甘口であって、もともとのカレーの辛さが微塵もない白取氏の言葉だということです。

    炭酸抜けた砂糖水のようなコーラ。
    こんなもんをニーチェと思っとたら火傷するで。
    大衆受けする書籍、悪臭を放つ言葉。
    大衆迎合はニーチェが最も軽蔑した発想じゃぁああああ!

    すみません、ついつい暴走しますた。。。。(爆)
引用返信/返信 削除キー/
■18408 / inTopicNo.75)  Re[25]: Z 第一部 説話[16]
□投稿者/ みのり -(2021/11/06(Sat) 08:51:40)
    No18405に返信(パニチェさんの記事)

    > はい、異性の観察を除いて。。。(笑)
    > ニーチェがモテなかった理由がよく分かる、男のというかニーチェの女性に対する「こうあって欲しい」という願望をあまりに投影し過ぎてます。
    > 女性はそんなに甘くない。。。。^^

    何か弱点、欠点があるほうが人間味があっていいと思います。
    ただ、私は若くないので、ニーチェの女性観も何か可愛らしささえ感じるのですが、若い女性は引くかもしれないですね。

    >>やはり、『ツァラトゥストラ』を読んでみてよかったです。
    >
    > それはよかった!
    > 私にとって何よりの言葉です。
    > 無駄遣いでなくてホッとしました。

    もっと硬い内容ばかりを想像していたのですが、実際には、和訳された文章の雰囲気は多少硬くても、生きていく上での糧になるものが多いです。
    ニーチェが人気があるのが、自分のところで理解できました。
引用返信/返信 削除キー/
■18405 / inTopicNo.76)  Re[24]: Z 第一部 説話[16]
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/06(Sat) 08:39:56)
    No18402に返信(みのりさんの記事)
    > パニチェさん、レスありがとうございます。

    どういたしまして。

    > ニーチェの人間観察力はすごいですね。

    はい、異性の観察を除いて。。。(笑)
    ニーチェがモテなかった理由がよく分かる、男のというかニーチェの女性に対する「こうあって欲しい」という願望をあまりに投影し過ぎてます。
    女性はそんなに甘くない。。。。^^

    > やはり、『ツァラトゥストラ』を読んでみてよかったです。

    それはよかった!
    私にとって何よりの言葉です。
    無駄遣いでなくてホッとしました。
引用返信/返信 削除キー/
■18402 / inTopicNo.77)  Re[23]: Z 第一部 説話[16]
□投稿者/ みのり -(2021/11/06(Sat) 08:30:39)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    ニーチェの人間観察力はすごいですね。
    やはり、『ツァラトゥストラ』を読んでみてよかったです。
引用返信/返信 削除キー/
■18400 / inTopicNo.78)  Re[22]: Z 第一部 説話[16]
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/06(Sat) 08:28:36)
    おはようございます、みのりさん。横レス失礼します。

    No18395に返信(みのりさんの記事)


    > 「最も遠い者」というのは、自己超克を積み重ねた末に超人となった自己のこと。
    > 超人となった自己は、不十分な自己愛ではなく完全なる自己愛を持つ者となる。
    > 完全なる自己愛 = 健全な自己愛といったらわかりやすいし、誤解も生まないかもしれないと思います。

    同意です。

    > ・・・・・
    > 7 きみたちは、自分自身に我慢がならず、自分を充分に愛していない。
    >  そこで、きみたちは、隣人を誘惑して自分に好意をいだかせ、隣人の思い違い
    >  でもって自分を金めっきしようと欲するのだ。
    > ・・・・・同書 p110より引用

    > 空っぽで満たされていなくて、そんな自分を愛せない者は、隣人から好意を得る行為をすることによって隣人に思い違いを起こさせ、それにより称賛を受けることで自分に対して偽物の飾りつけを行う。

    > こういう例というのは、よく観察すると世の中にも実際あるし、生きて来た中で私自身もしたことがあると思います。
    > また、ドラマ・映画などでも、こういう人間関係というのは取り入れられているように思います。
    > 一種の共依存関係ともいえるものかもしれません。

    同意です。
    ここらあたりは一時ブームになったアドラー心理学の「嫌われる勇気」のルーツみたいに思えます。

    > ツァラトゥストラの言葉は、読む人によっては突き刺さるような厳しさ、非情さがあると思います。
    > でも、甘い言葉を言ってくれる人は多くても、厳しい言葉を言ってくれる人は少なく、それだからこそ貴重とも言えるのではないでしょうか。

    激しく(笑)同意です。^^
    母性愛とはまた違う古き良きパターナリズムを感じます。
    仏教で言うと菩薩が母性愛なら、明王が父性愛かなぁ〜。
引用返信/返信 削除キー/
■18395 / inTopicNo.79)  Z 第一部 説話[16]
□投稿者/ みのり -(2021/11/06(Sat) 08:08:33)
    2021/11/06(Sat) 08:14:13 編集(投稿者)
    2021/11/06(Sat) 08:11:44 編集(投稿者)

    [16] 隣人愛について

    ・・・・・
    4 わたしはきみたちに隣人愛[ 最も近い者への愛 ]を勧めるだろうか?
     それよりもむしろ、わたしはきみたちに隣人[ 最も近い者 ]からの逃避と
     最も遠い者への愛を勧めるのだ!
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p109より引用

    前回の投稿で、隣人愛について。
    それは、不十分な自己愛であり、そうした自己からの逃避であることが
    書かれているということについて投稿しました。

    4 では、そのような隣人愛について、ツァラトゥストラは勧めるものではなく、むしろ避けるべきものとした上で、「最も遠い者への愛」を勧める、と語ります。

    「最も遠い者への愛」。 これは、隣人(近くにいる人々)に対して、それとは反対に
    物理的に遠くにいる人々への愛、という意味なのだろうか、と思ったのですが、そういうことではないのです。

    「最も遠い者」というのは、自己超克を積み重ねた末に超人となった自己のこと。
    超人となった自己は、不十分な自己愛ではなく完全なる自己愛を持つ者となる。
    完全なる自己愛 = 健全な自己愛といったらわかりやすいし、誤解も生まないかもしれないと思います。

    ・・・・・
    7 きみたちは、自分自身に我慢がならず、自分を充分に愛していない。
     そこで、きみたちは、隣人を誘惑して自分に好意をいだかせ、隣人の思い違い
     でもって自分を金めっきしようと欲するのだ。
    ・・・・・同書 p110より引用

    空っぽで満たされていなくて、そんな自分を愛せない者は、隣人から好意を得る行為をすることによって隣人に思い違いを起こさせ、それにより称賛を受けることで自分に対して偽物の飾りつけを行う。

    こういう例というのは、よく観察すると世の中にも実際あるし、生きて来た中で私自身もしたことがあると思います。
    また、ドラマ・映画などでも、こういう人間関係というのは取り入れられているように思います。
    一種の共依存関係ともいえるものかもしれません。

    自分がこうした状態にいる場合であっても、このツァラトゥストラの言葉に傷つくだけでなく、自分がそうであるバックボーンに思いをはせ、自分を責めることなく健全な方向性を模索すればいいのだと思います。

    ツァラトゥストラの言葉は、読む人によっては突き刺さるような厳しさ、非情さがあると思います。
    でも、甘い言葉を言ってくれる人は多くても、厳しい言葉を言ってくれる人は少なく、それだからこそ貴重とも言えるのではないでしょうか。

引用返信/返信 削除キー/
■18344 / inTopicNo.80)  Re[20]: ひとりごとです。
□投稿者/ みのり -(2021/11/05(Fri) 09:41:37)
    2021/11/05(Fri) 12:18:04 編集(投稿者)

    しかし。 今、書いてみたあれこれもすべて幻想、夢だとしたら・・・
    ウパニシャッドも仏陀も大乗仏教もすべてが幻想、夢ということであり、
    もう笑っちゃうしかないとなる。

    結果。抜苦の方法を人々に教えようとした仏陀は、すごい人だな、と。
    そこから派生して、心理学とかも後の時代に出てきたと思うし。

    ただ、存在ということに関して、何らかの納得が欲しいと考えるのも、人間の
    特性であり、抜苦だけではなかなか納得しずらい習性があるんだろうな。

    あ〜、今こうして書いていることも、上に書いたその内容の様々も、映画の中(夢であり幻想である)でそうなってるのだとしたら、もう笑っちゃうしかないな〜。
    何言おうと夢、幻想とね。

    ただ、夢、幻想だとしても、それを生きていくには違いないのですね。
    (先日も書いたことだけど。)


    さて、終わりにしよう。
引用返信/返信 削除キー/
■18343 / inTopicNo.81)  ひとりごとです。
□投稿者/ みのり -(2021/11/05(Fri) 09:22:55)
    2021/11/05(Fri) 09:32:31 編集(投稿者)

    大元の投影元としては、途切れのない一つの映画を投影していただけなのだけれど、

    その途切れのない一つの映画を、自我に目覚めた人間たちは、それぞれ無数の
    自分たちの映画にして、それを生きるようになった。
    ここ、人間たちにとって、すごい発見だったと思う。
    一つの映画の中の無数の登場人物たちが、「私」に気づいていったのだから。
    そして、この発見なしには、現代の様々な文明はありえなかっただろう。

    こうしたことを、投影元から投影されている夢、幻想の中で、無数の登場人物たちが「私」に目覚めた段階、としてみる。

    大元の投影元というのは、カント哲学で言うと「物自体」、キリスト教だと「神」、非二元だと「気づき」「真我」に当たると思うのです。


    で、仏教、特に大乗仏教が出てくる前までの仏教は、アートマンについては無記としたように、今、上に書いたようなことは考えずに、現象として現れている「苦」をどうにかしていくことが大切だとして、抜苦の方法を模索したのだと思う。
    夢、幻想であるかもしれない世界だけれど、実際に苦を感じているには違いないのだから、それをどうにかするのが先決だろうと。
    痛み、苦しみというのは、人間にとってリアリティとして迫って来るし、夢かも幻想かもなんていう流暢なことを言っていられないものな〜。


    投影元から投影されている一つの映画の中で、「私」を発見した人間たちの中には、
    「私」というのはそもそも、投影元から投影されているだけの存在なのではないか、
    と考える者たちが出てくる。
    (私もそうだけど。)

    これは、人類にとって第二の発見とも言えるのではないかな。
    ウパニシャッド哲学とかはこういうことを大昔に考えていたんだろうな。

    で、そんなこと言うても、人間は苦しんでるやん、それを先にどうにかしなしゃーないやないか、と言い出したのが仏陀なのだろう。


引用返信/返信 削除キー/
■18342 / inTopicNo.82)  無限の空間
□投稿者/ みのり -(2021/11/05(Fri) 08:13:09)
    2021/11/05(Fri) 08:29:10 編集(投稿者)

    >全てを包括する唯一の空間

    という文章を他トピで見た。

    これは、宇宙をも包括する唯一の空間、と言い換えてもいいものだと思うんですね。
    このように考えることが合理的であるとして考えられたのだと想像します。

    その、「全てを包括する唯一の空間」「宇宙をも包括する唯一の空間」に、
    宇宙や地球、大陸、島々、海、山、人間たち、動植物が現れている
    のを、人間は、自分たちの認識システムを通して認識している。

    (人間独自の認識システムを通す前の、物自体の世界がどのようになっているかは、人間には認識することは不可能。)

    >全てを包括する唯一の空間

    というのは、非二元的には、「気づき」です。

    「気づき」とは、無限の空間のことなのです。
    「私」(個人としての私)もそこに現れるものなので、「私」の本質、本体は、
    無限の空間である「気づき」である、となります。


    あくまでみのりが感じたことを書いてみたということで、今書いてみたことが正しいという確証はありません。


    >全てを包括する唯一の空間
    というのを、カント研究の先生がどのように捉えられて出されたのかは、わかりかねるので。

    ただ、なにか共通しそうな予感がするので、書いてみました。

    >◇これらの諸部分もまた、すべてを包括する唯一の空間のいわば諸構成要素(それからこの空間の合成が可能であるような)として、この唯一の空間に先行するのではなく、この唯一の空間のうちで≠フみ、思考されるに過ぎない。

    このお借りした文章も、「唯一の空間」を「気づき」と言い換えるとするなら、

     この唯一の空間(気づき)に先行するのではなく、
    この唯一の空間(気づき)のうちで≠フみ、思考されるに過ぎない。

    としても、非二元側としては矛盾がないです。


    ※ うましかさんの御投稿(18323)中の文章をお借りしました。
      無断でお借りしてすみません。




引用返信/返信 削除キー/
■18292 / inTopicNo.83)  非二元の観方
□投稿者/ みのり -(2021/11/04(Thu) 08:24:27)
    2021/11/04(Thu) 08:36:14 編集(投稿者)

    よく私は、非二元(=ノンデュアリティ、アドヴァイタ)という言葉を出しているので、「それ、いったいなに?」と思われている方もいるかもしれないので(いないかもしれないけど)書いてみます。

    非二元、つまり、二元に非ず。
    この二元とは、主体と客体の二元のことです。
    つまり、主体と客体は二元に非ず、ということです。

    主体は、「私」。 客体は「世界の様々」。
    これが二つではない、二つに非ずということです。

    通常、人間は、「私」という主体がいて、「私」が○○を△△する、と文章表現したり、日常会話においても、主語述語目的語を明らかにして話すような時には、そのように表現したりします。

    しかし、非二元においては、実際に生活している中での様々な経験を通して、実際に起きていることをよく観察していき、本当に主体と客体は二元なのだろうか、ということを理解していく方法が取られます。
    こうした方法を「ダイレクトパス ( 直接的な道 )」と呼びます。

    この方法を実際に体験してみる際、できるだけ、「自分は主体である、という考えを脇に置いておく」「言語からなるべく離れる」ことを前に意識しておくといいと思います。

    結論から言うと、非二元では「私」は、世界からも「気づき」からも離れては存在しえないものと考えます。

    もともとあるのは、あったのは「気づき」だけだと考えます。
    気づいている、ということです。
    原初の人間、赤ちゃんがそうであるように。
    言語のない世界で、分離していない何かに、ただ気づいています。
    これが人間にとってのベースだと考えるのです。

    そして、成長と共にその「気づいている」に、言語表現や主客分離が登場してきます。
    ここで、「私」は登場し、「あなた」も登場します。
    様々な物の名前を覚え、言語生活がスタートします。
    二元に分かれた世界観です。
    人間はこれによって社会生活を送っていますし、これを全面的に批判的に見るつもりはないですし、私自身も二元的な観方から完全に離れるのは無理だと思っています。

    ただ。本来の人間の観方は、非二元的なものであり、それは安らぎであり、足りないものはないという満たされた感覚とともにある観方です。
    原初の人間や赤ちゃんがそうであるように。

    成長した大人になって、言語生活をしていても、世界や他者に対しての観方が、非二元などを知らなくても自然にノンデュアル(分離がない)人というのもいます。
    人と程よい距離感で思いやりをもって接し、何はなくとも充足感で満たされているような人ですね。 これはおそらく天性のものなのだと思います。

    非二元の観方では。 「私」(=自分)と改めて言わずとも、「私」を出さずとも、他のあらゆる客体と同列に並べておいても、普通に暮らしていけてるよ、ということを教えていると、これが最もわかりやすい形での教えている内容だと、私は考えています。

    今、みのりは、パソコンを前にして指でキーボートを打ち、たまに考えたりもしながら投稿文を作成していて、左わきにはコーヒーカップに入ったコーヒーがあり、ぬるくなったそれをたまに飲みながら座椅子に座っています。

    文章にするとこんなにくどくなりますが、実際の経験としては、
    分離のない流動性が「気づき」に現れているだけ、です。
    実際の経験には、主体も客体もありません。
    人間が思考し、言語化するところに、主体と客体は現れます。


    非二元を理解してしまうと、「私」という主体ありきで考える西洋哲学と矛盾してしまうのではないか、西洋哲学が無効にされてしまうのではないか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はそうは思いません。

    非二元での、「世界と気づきから分離しては存在しえない私」という観方と、
    「私」を主体とする哲学的、また、社会生活上(通常の生活)での観方の両方が両立しているのだ、とみのりの中ではなっていますし、他の非二元と西洋哲学的な観方の両立をしている人たちにとっても同じく、矛盾は無いと考えます。
    実際、欧米人でもともと哲学者だった人が、非二元の教師もしているという例があります。

引用返信/返信 削除キー/
■18214 / inTopicNo.84)  Re[16]: ザンギ
□投稿者/ みのり -(2021/11/03(Wed) 08:07:36)
    No18173に返信(田秋さんの記事)

    > >考えてみて思ったのは、電動自転車、電動歯ブラシ、豚・牛ザンギ よりも、現在まだ、もともとのものたちの方が一般的にはまだ広く使用されている、好まれているから、かなということです。
    >
    > 教科書でもそのように指摘しています。
    > 「新旧両者の関係が拮抗していないためと考えられる」、とあります。そうですね、自転車も歯ブラシもまだまだ従来型の勢力が強いですね。ザンギはどうなんでしょう?トリの地位は安泰なのでしょうか^^

    田秋さん、おはようございます。

    テキストの表現は、同じことを言うのでもやはり私のとは違って、適切な単語を用い簡潔に表現されていますね。^^

    拮抗という言葉とか、私、普段まったく使わないですもの。(^▽^;)

    > 元々中国料理なんですか!じゃあ、美味しいわけですね。

    今は、一般的に、鶏肉に生姜・ニンニク・醤油などで味付けして揚げたもの全体は「鶏のから揚げ」と書かれることが多いですけど、もとは「鶏の唐揚げ」と正式(?)に表記されることが多かったのかもしれないですね。^^

    昔は、ラーメンも「中華そば」という呼び方もされていたようですが、今は、「ラーメン」と呼ぶ人のほうがおそらく多いと思います。

    こうしたことも考えて見るとおもしろいですね。^^
引用返信/返信 削除キー/

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