| 2021/11/06(Sat) 08:14:13 編集(投稿者) 2021/11/06(Sat) 08:11:44 編集(投稿者)
[16] 隣人愛について
・・・・・ 4 わたしはきみたちに隣人愛[ 最も近い者への愛 ]を勧めるだろうか? それよりもむしろ、わたしはきみたちに隣人[ 最も近い者 ]からの逃避と 最も遠い者への愛を勧めるのだ! ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p109より引用
前回の投稿で、隣人愛について。 それは、不十分な自己愛であり、そうした自己からの逃避であることが 書かれているということについて投稿しました。
4 では、そのような隣人愛について、ツァラトゥストラは勧めるものではなく、むしろ避けるべきものとした上で、「最も遠い者への愛」を勧める、と語ります。
「最も遠い者への愛」。 これは、隣人(近くにいる人々)に対して、それとは反対に 物理的に遠くにいる人々への愛、という意味なのだろうか、と思ったのですが、そういうことではないのです。
「最も遠い者」というのは、自己超克を積み重ねた末に超人となった自己のこと。 超人となった自己は、不十分な自己愛ではなく完全なる自己愛を持つ者となる。 完全なる自己愛 = 健全な自己愛といったらわかりやすいし、誤解も生まないかもしれないと思います。
・・・・・ 7 きみたちは、自分自身に我慢がならず、自分を充分に愛していない。 そこで、きみたちは、隣人を誘惑して自分に好意をいだかせ、隣人の思い違い でもって自分を金めっきしようと欲するのだ。 ・・・・・同書 p110より引用
空っぽで満たされていなくて、そんな自分を愛せない者は、隣人から好意を得る行為をすることによって隣人に思い違いを起こさせ、それにより称賛を受けることで自分に対して偽物の飾りつけを行う。
こういう例というのは、よく観察すると世の中にも実際あるし、生きて来た中で私自身もしたことがあると思います。 また、ドラマ・映画などでも、こういう人間関係というのは取り入れられているように思います。 一種の共依存関係ともいえるものかもしれません。
自分がこうした状態にいる場合であっても、このツァラトゥストラの言葉に傷つくだけでなく、自分がそうであるバックボーンに思いをはせ、自分を責めることなく健全な方向性を模索すればいいのだと思います。
ツァラトゥストラの言葉は、読む人によっては突き刺さるような厳しさ、非情さがあると思います。 でも、甘い言葉を言ってくれる人は多くても、厳しい言葉を言ってくれる人は少なく、それだからこそ貴重とも言えるのではないでしょうか。
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