| おはようございます、おくたがわさん
ハンドルネームをどうしようかと迷いましたが今回はパ田秋で行きます。
「語り得ぬもの」があるというのは、究極的にはそうなのでしょう。ただ人がそういうからそうなのかと納得するのでは自分としてはどうもストンと落ちないのです。 一時代前アイザックスターンという名バイオリニストがいました。この人はカメラが趣味で色んな高級カメラを使った挙句、後年、バカチxXカメラと言われたカメラを手にし、「これがいいよ」と笑っていました。「これがいいよ」の重みが違ってきます。 言葉は論理を構成する上で絶大な威力を発揮します。しかし一方、言葉の働きはこれだけではありません。文学に感動するのはその構成力にだけではありません。言葉一つひとつに作者が込めた魂に打たれる部分は大きいと思います。
元々語り得ぬものには論理など通用しないでしょうから、言葉の論理以外の能力で語り得ぬものにアプローチしてみるのも面白いと思っています。
コバケンはよく「行間を読んで」と言います。これは五線に書かれた音符の、そこに込められた作曲家の意図を読めということだ思っています。もし、それで奏者が思い思いに「行間」読んで演奏し、それがコバケンの意図に沿うものだったとしたら、「行間を読む」というある意味抽象的な表現が立派に共通認識が持てる語として成り立っているんだろうと思います。 語り得ぬものの限界はまだずっと先にあるようです。
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