(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■19132 / inTopicNo.97)  おくたがわさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/11/19(Fri) 23:05:10)
    2021/11/20(Sat) 07:03:39 編集(投稿者)
    おくたがわさん、こんばんは(^O^)/

    No19105に返信(おくたがわさんの記事)
    > 2021/11/19(Fri) 11:49:14 編集(投稿者)
    >
    > ■No19098に返信(うましかさんの記事)
    > うましかさん、pipitさん、おはようございます。
    > 以下うましかさんの疑問についてトンチンカンな投稿になっていたらすみません。
    > .    、、
    > 天野:思惟することができなければならぬ。
    >     、、、
    > 石川:考えることはできなければならない
    >         、、、、
    > 中村と原は「思考する」
    >
    > これは、我々が「物自体」について考える(=カントの考え)のと同じ「考える」と単純に解釈してはダメ?
    >
    > 『〜そうでないとすれば(=物自体として考えることができないとすれば)、現象となる元がないのに現象があるという不合理な命題が帰結してしまうからである』(石川)
    >
    > 現象があるならば、感性を触発してその現象を生じさせる「何か」(もの自体)があるはずだ、と考えることとか。<

    そうですね、御子柴善之先生の『カント哲学の核心』p159なども、そのような解説のように思えます。
    それと、全く不勉強のpipitの今のところの私見ですが、
    理性を理論理性と実践理性に分けて、実践理性の領分で考える余地を残してるようにも思えています。


    > ただ、
    > 『同一の対象を物自体として考える』といった表現が引っかかる気はします。うましかさんが気になるのも、その辺ですか?<

    これ、第二版序文の、中山先生第一巻p172(ページの下には、]]XVとあります。)の
    『しかし批判は、客体を二つの意味で、すなわち現象としての客体と、物自体としての客体として考えることを教えるのであり、・・・』のところを思い浮かべました。
    ここも、

    > pipitさんも書いてるように、ここにも因果性と自由が両立する根拠が書かれてますね。
    > 純粋悟性概念が適用されて因果性に束縛される(従って自由がなく道徳の前提が否定される)のは我々のうちにある現象であって、物自体の側には因果性はないゆえに自由がありうる。<

    このことについての言及だなぁと、今読んで改めて思いました。

    いつもありがとうございます!!
引用返信/返信 削除キー/
■19133 / inTopicNo.98)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/19(Fri) 23:08:14)
    沼こんばんはー( ^ω^ )♪

    >で、けっきょく、うましかは何が気になっているの?とお二方から問われるならば、くり返しになりますがカントの認識論からズレるかもしれませんけど、認識論では認識不可能とされる物自体について、思考することは可能なのだという、上のカントの主張に対してです。<

    実践論では、思考することが可能! はいかがでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■19134 / inTopicNo.99)  Re[12]: うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/19(Fri) 23:38:51)
    2021/11/19(Fri) 23:42:02 編集(投稿者)

    No19133に返信(pipitさんの記事)
    > 沼こんばんはー( ^ω^ )♪
    >
    > >で、けっきょく、うましかは何が気になっているの?とお二方から問われるならば、くり返しになりますがカントの認識論からズレるかもしれませんけど、認識論では認識不可能とされる物自体について、思考することは可能なのだという、上のカントの主張に対してです。<
    >
    > 実践論では、思考することが可能! はいかがでしょうか?

    『マンガみたいにすらすら読める哲学入門』蔭山克秀先生著、だいわ文庫
    から、めちゃめちゃ端折って引用します。
    代ゼミ講師(執筆時)蔭山先生の倫理目線かもですが、(pipitとしては倫理目線に寄りすぎな気もしますが(^^;)

    p185より引用
    『カントにとって哲学のなすべきこととは、できもしない「"世界の本体"の認識」ではなく、「人間はどんな世界をめざすべきか」を「考える」ことだ。
    認識はできなくても、考えるだけならできる。
    では、ここからがカントの後半戦だ。』

    ※※※※※※※※※

    pipitは、家に『実践理性批判』を置いてさえないので、全然知らない領域なのですが、

    『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』伊藤邦武先生著、ちくまプリマー新書、p145には、

    実践理性について
    『カントはこれこそが、人間理性のもっとも重要な働きであり、この働きの中で、理性は現象世界を超えて、物自体の世界に触れることができると主張するのです。
    もちろん、人間が認識作用という仕方で精神を働かせている限り、理性は理論理性にとどまっていて、現象世界の認識しか行うことができません。
    (略)
    ところが、認識作用とはまったくの別の作用の局面では、人間は現象世界を超えて、物自体の世界に触れることができると、カントは考えるのです。
    (略)
    私たちは生物としての人間として見れば、たしかに他の生物と同じように、さまざまな生理的制約の下で生きています。
    しかし、人間を生物ではなく社会的存在者として考えれば、自分の行動を自分の価値判断の基準で評価し、それを実行に移す自由を持っています。
    実践理性の働きとは、人間精神がもっている、このような自律的行動を追求する能力のことをいいます。(略)』

    とありました。

    私は何を知るのか、の対象として物自体のことを考えるのではなく、
    私は何を為すべきか、の理由として物自体のことを考える可能性はどうかな?
    と、カント哲学をきちんと知らないpipitは今の時点で推測しました。

    全然勘違いしてたらすみません沼!



引用返信/返信 削除キー/
■19135 / inTopicNo.100)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/19(Fri) 23:50:12)
    現象を認識する世界では、第一原因は、わからない、と、隠されてしまってる。

    でも、行為するとき、現象世界の第一原因として行為(あるいは無為)をなすことができる

    とか????

    全然違うかも?????

    日記でしたー

    おやすみなさーい ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■19136 / inTopicNo.101)  Re[14]: 日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/19(Fri) 23:53:23)
    死ぬまでに実践理性批判の読解にたどり着けるかどうかは
    不確定 (T ^ T)

    でも、たどり着けたらいいなー (●´ω`●)
引用返信/返信 削除キー/
■19137 / inTopicNo.102)  溺れるうましか実践つかめず(´;ω;`)ウッ
□投稿者/ うましか -(2021/11/20(Sat) 00:08:57)
    2021/11/20(Sat) 00:27:32 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんは沼ー

    救命活動していただき、ありがとうございますm(__)m

    おくたがわさんにも感謝です。


    恥ずかしながら、さっきまで「認識論では認識不可能とされる物自体について、思考することは可能なのだ」とカントが言ってることに、ちょっとした喜びを感じていたんですが、

    思考できるのが実践論なのだったといういろんな方々の説明を知って、そんな気持ちが萎んでしまいました(´;ω;`)ウゥゥ



    感性論の途中レベルでは、まだまだ風呂敷をひろげるには早すぎたようですねー


    でも『純粋理性批判』における"denken(思考する)" の、「物自体」に対する関係について考えてみるよいきっかけになりました。




    (/・ω・)/おれい沼〜


引用返信/返信 削除キー/

<前の12件

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:101) → [トピックの新規作成]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -