| 時さん、レスありがとうございます。
> 日本人が日本語を使い日本語訳で書かれているのですが、それがどういった意味合いなのかがニュアンスでしか読み取れないような言葉が出てくる場合が少なくないようですので、その場合には、文脈全体の雰囲気でとらえています。ですので、感覚でとらえていても説明ができない場合が多々ありますね。
時さんのようにお詳しい方でも、読み取るのには苦心される場合もあるのですね。 でしたら私などは、中国四千年の漢字の「圧」に圧倒されて逃げたくなってもしかたないのかも、なんて思ってしまいます。 中華三昧ならおいしいんですけど。(^▽^;)
>>>原始仏典内での瞑想は、有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定の三つです。
> 尋は、大まかな考察・思考の事で、伺は、細かな考察・思考の事と理解しています。
はい。尋は、大まかな考察・思考の事。伺は、細かな考察・思考の事。 ですね。
> ですので、有尋有伺定は、尋(大まかな考察)と伺(細かな考察)が有る禅定です。 > 無尋有伺定は、細かな考察のみの禅定です。 > 無尋無伺定は、考察自体がない禅定ですが、これは、有尋有伺定と無尋有伺定を続けていると、疲れて続かなくなりますので、その境地で何も考察なしでの休息するようなイメージを持っています。
はい。
> 心の統一(禅定)を行っていきますと、最初は有尋有伺で、それがやがて無尋有伺に移行していきます。思考内での瞑想の対象が少なくなるからですね。 > > 例えばですが、 > 有尋有伺は、遠くから何かごちゃごちゃと綺麗な色が混在する場所を見ます。 > 無尋有伺は、(それがお花畑だと認識し)その中の(焦点が)一本の花に集中します。この時、最初の綺麗な色が混在する場所というのは思考せず、一本の花にその思考は向きますね。こんな感じで考えています。
ありがとうございます。分かりやすかったです。
十二縁起を瞑想する、四念処観をする、というのはその名称とごく簡単な内容だけは存じていました。 今、教えていただいたものは、分類としては、十二縁起、四念処とはまったく別な 系統と言ったらいいのか・・になるのですか?
今、教えていただいた瞑想法が書かれている仏典の名前も、よかったら教えていただけますでしょうか。
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