(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■3799 / inTopicNo.37)  Re[19]: 一つの能力
  
□投稿者/ pipit -(2020/07/10(Fri) 20:56:18)
    了解です!
    (^O^)/

    No3797に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま
    > ちょっと訂正です。ごめんなさい。
    > わたし、<カントは人間の或る一つの能力を”発見した”って、ニーチェは言ってるんだと思うんだけど>って書いたけど、この、<言ってる>っていうところ、「認めてる」に変更する。
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■3803 / inTopicNo.38)  ニーチェさんの文章
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 00:18:08)
    悪魔ちゃんさん引用ありがとね。
    中島先生の文章の読解も続けるけど、
    先にこのニーチェさんの文章読んでみるね。

    > いまや至る所で、カントがドイツ哲学に及ぼした本来の影響から眼を逸し、殊に彼が自分自らに認めた価値を巧みに滑り超えようと努めているように私には思われる。<

    この彼、が、誰を意味するかちょっとわからないな。
    カントに続く哲学者たちのことかな?

    >カントは何よりもまず自分の範疇表を誇りとした。彼はこの表を手にして言った。「これこそはかつて形而上学のために企てらえた最も困難なものである。」――どうか、この「られえた」という言葉を理解してもらいたい!<

    可能、という意味かな。

    >彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。彼がこの点で自ら誤っていたとしても、やはりドイツ哲学の発展と急激な開花は、この誇りに負うものであり、また、できうべくんば更により誇らしいものをーーとにもかくにも「新しい能力」を発見しようというすべての後学の競争心に基づくのだ!<

    人間の能力への誇りが哲学を活気づけた。
    さらなる人間の能力を我先に発見する野望とともに、哲学が展開していく。

    >しかしよく考えてみると、今がその時である。「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしてしたので、そういう答えのうちに潜む愉しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。<

    いかにして先天的総合判断は可能か、には、人間の能力により、ですむものを、
    回りくどくもったいつけたカッコつけた文章で表現したので、人間の能力により、という答えに潜む、ドイツ語風の愚かさは聞き漏らされた。

    >そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。――当時ドイツはなお道徳的であって、全然まだ「現実的・政治的」ではなかったからだ。――<

    人間の能力に悦に入り、人間の内にある道徳的能力をも発見したとカントが思った時、喜びは頂点に達した。
    当時ドイツは道徳的であり、現実的・政治的ではなかったからだ。


    >ドイツ哲学の蜜月が到来した。テュービンゲンの神学校の若い神学者たち(若いシェリングやヘーゲルを指す)はすべて直ちにその藪の中に入り込んだ。――皆の者が「能力」を探し求めた。そして見つけ出さぬものとてはなかった。――<

    みんなが人間の能力を探すことに夢中になった。

    >ドイツ精神のあの無邪気で、豊かで、なお若々しい時代においては、浪漫主義という意地の悪い妖精が当てもなく笛を吹いたり、歌いまくったりしていて、当時は「発見」と「発明」との分け隔てもまだつけられなかったのだ!<

    発見は、すでにあるものを見つける。
    発明は、まだないものをつくる、かな?

    >なかんずく「超感性的なもの」に対する能力が発見された。<

    哲学者たちは、感性や身体を超えたものに対する能力を発見した。

    >シェリングはそれに知的直観という名で洗礼を施し、それによって根っから信心を求めてやまぬドイツ人の衷心からの欲情に迎合した。<

    人間の能力は神様並みとすることは、結局は、神様を求める人間の欲望に迎合して神様の存在を召喚させることだった、ということかな??
    ここらへんは不勉強すぎてわからないな。

    >この全く思いあがり逆(のぼ)せあがった運動は、灰色の年寄じみた諸概念の衣で思い切った装いをしていたにもせよ青春であったのだから、これを真面目に受け取り、まして道徳的な憤激(激しくいきどおること、ひどく怒ること)なんかで遇するのは、全くこの上もない不当の処遇と言わなければならない。<

    運動って、知的直観の思想のことかな?
    人間に知的直観が備わるという思想を、まじめに受け取り怒るのは不当ってことかな?
    それとも違うことかな?


    >それはとにかくとして、人々は老いた、――夢は飛び去った。額(ひたい)を撫でて考え込む時がやって来た。人々は今日といえどもなお額を撫でている。夢を見ていたのだ。<

    人間に能力があったという夢は去ったということかな?

    >それは誰よりもまずーー老カントだった。「一つの能力によって」――とカントは言った。少なくともそう思った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。<

    アプリオリな総合判断はいかに可能か?
    能力によって。
    では能力ってなに?
    アプリオリな総合判断ができることだよ、ってことかな。



    >果たして阿片はいかにして眠らせるのか。「一つの能力によって」、すなわち《催眠力》によって、――とモリエール*の作中の医者は答える。
     《そのゆえは、それに催眠の力ありて、その力に感官をまどろます性(さが)あれば。》
    しかしこのような答えは喜劇に属する。<



    >それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。<


    アプリオリな総合判断に対する信仰がなぜ必要となるのか、という問いを補充すべき時だ。ということかな。


    >――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。<

    生命保持のため、アプリオリな総合判断を真理のように人間は信じる、ということを理解すべき時だ。

    >それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!<

    生命保持のために信じるゆえに、
    別にアプリオリな総合判断が誤った判断でもいいのだ。
    絶対的真理として、成り立たなくていあということかな?

    >或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。<

    あらゆる意味でアプリオリは無理もいうことかな?
    欲望に規定づけられた、総合判断だから。

    >われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤な嘘の判断である。<

    先天的は、嘘だということかな。
    生きる欲望が先にある、ということかな。


    とりあえずここまでの文章推測を書いてみました。
    続きはまた読ませてもらいますね。

    おやすみなさい(o^^o) ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■3807 / inTopicNo.39)  自己レス
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 06:37:30)
    おはようございます。


    >>いまや至る所で、カントがドイツ哲学に及ぼした本来の影響から眼を逸し、殊に彼が自分自らに認めた価値を巧みに滑り超えようと努めているように私には思われる。<<

    >この彼、が、誰を意味するかちょっとわからないな。
    カントに続く哲学者たちのことかな?<

    あ、彼はカントのことで、

    カントがカント自身に認めた価値を、
    今や至るところで(様々な哲学者たちが)越えようと努めてるように思える、

    という意味かな、と、さっき思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■3808 / inTopicNo.40)  ニーチェさんの文章2
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 07:00:21)
    読解チャレンジの続き

    >それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤な嘘の判断である。<

    アプリオリな総合判断は可能か、という問いではなく、
    アプリオリな総合判断を人間が真理と信じるのはなぜか、と問うべき。
    真の意味でのアプリオリな総合判断が人間に可能というのは真っ赤な嘘。


    >ただし言うまでもなく、その真理性に対する信仰は必要であるが、それも生の配景的光学に属する一つの前景的信仰であり、外観である。<

    ただし、欲が組み立てた認識に対する信仰は、欲を全うするためには必要なことである。
    自分のつくりだした認識という品物の品質に対する信頼だね。


    >――そこで最後になお「ドイツ哲学」――望むらくは、これが引用符を要求する権利をもつことを分かってもらえようかーーが全ヨーロッパに及ぼした巨怪な影響を思えば、或る種の《催眠力》がそこに関与していたことを疑うわけには行くまい。<

    ドイツ哲学が人間をまどろませた。

    >あらゆる国々の高貴な有閑者・有徳者・神秘家・芸術家・四分の三のキリスト者および政治的非開花者たちの間では、ドイツ哲学のおかげで、前世紀から今世紀へ溢れ込んだなお優力な感覚論に対する解毒剤、要するにーー《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった・・・<

    身体性に注視することを置き去りにさせた、ということかな?
    現実から目をそむけて楽しもうとする、人間の感覚を狂わし酔わすもの、
    そのような影響がドイツ哲学にあったということかな?

    以上、ニーチェさんの文章の意味を私なりに考えてみるチャレンジでした。
    正反対に違って読解してたりしたらすみませんm(_ _)m


引用返信/返信 削除キー/
■3810 / inTopicNo.41)  Re[19]: 一つの能力
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 07:26:48)
    悪魔ちゃんさん、おはよう(^O^)/


    私の今の段階の理解では、カントは、人間は認識する際に、
    人間特有の形式を認識過程で使用するゆえに、
    アプリオリな総合判断が可能になると言ってるのかなと思ってます。(勘違い可能性あり。)
    アプリオリな総合判断を可能にした能力とは、
    人間の認識能力の仕様に帰すると思ってます。
    ニーチェは、人間の認識能力の仕様をカントが発見したことは認めてるけど
    人間能力の結果物、は、人間能力により可能、と言っても、
    当たり前のことしか言ってないやん、ということかな?
    絶対的真理としてのアプリオリな総合判断がカント哲学において成り立ってるわけではなく、
    人間にとっての、アプリオリな総合判断が成り立ってるにすぎない、と言ってるのかな、と、思いました。
    もしそうなら、カントにとっても違和感ない意見だと思うんだけど、
    いろんな箇所で私の解釈が間違えてそうなので、
    とりあえず今の段階の私の意見を仮のものとして、私の感想として投稿しますね。

    いつも刺激的な引用をありがとう。
    ビビりの私は、悪魔ちゃんさんが引用してくれなかったら、
    ニーチェさんの文章読むの、少なくともまだまだ先だったかも。

    だって、おこられるのって、こわいやん。。。
    でも、真理を知りたいとき、怖さを気にする気持ちは障害になるのだろうという気はすごくしてるよ。。。

    本当ありがとうね!!

    No3797に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま
    > ちょっと訂正です。ごめんなさい。
    > わたし、<カントは人間の或る一つの能力を”発見した”って、ニーチェは言ってるんだと思うんだけど>って書いたけど、この、<言ってる>っていうところ、「認めてる」に変更する。
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■3814 / inTopicNo.42)  Re[20]: 一つの能力
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/11(Sat) 08:30:24)
    横レス、失礼します。

    No3807に返信(pipitさんの記事)
    > あ、彼はカントのことで、
    > カントがカント自身に認めた価値を、
    > 今や至るところで(様々な哲学者たちが)越えようと努めてるように思える、
    > という意味かな、と、さっき思いました。

    そうだと思います。

    No3810に返信(pipitさんの記事)
    > 私の今の段階の理解では、カントは、人間は認識する際に、
    > 人間特有の形式を認識過程で使用するゆえに、
    > アプリオリな総合判断が可能になると言ってるのかなと思ってます。(勘違い可能性あり。)
    > アプリオリな総合判断を可能にした能力とは、
    > 人間の認識能力の仕様に帰すると思ってます。
    > ニーチェは、人間の認識能力の仕様をカントが発見したことは認めてるけど
    > 人間能力の結果物、は、人間能力により可能、と言っても、
    > 当たり前のことしか言ってないやん、ということかな?
    > 絶対的真理としてのアプリオリな総合判断がカント哲学において成り立ってるわけではなく、
    > 人間にとっての、アプリオリな総合判断が成り立ってるにすぎない、と言ってるのかな、と、思いました。
    > もしそうなら、カントにとっても違和感ない意見だと思うんだけど、

    同意です。素晴らしい読解力!

    いかにして先天的総合判断は可能か?人間の能力により可能となる。
    何故人間には理性が備わっているのか?人間は理性的な存在だからである。

    ナンセンス!カントは上記のような新たな信仰を構築し、ドイツの道徳論を停滞させた。
    今や、ここを見直すべき時に来ているのではないか?ってことをニーチェは述べているのだと思います。
    ニーチェが最も気に入らないのは最終的にカントが神を持ち出したことです。

    以下は私の意見です(ニーチェの影響もありますが。。)

    デカルトの第一原理も、カントのコペルニクス的転回も、歴史に残る哲学的な大仕事をやってのけたが、両名と前期においては神を棚上げした偉大な哲学を試みたが、最終的に神を持ち出した時点で思考停止に陥っている。
引用返信/返信 削除キー/
■3831 / inTopicNo.43)  Re[19]: 一つの能力
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/11(Sat) 15:45:56)
    pipitさま、読んでくれて、ありがとうございます。

    わたしのを書いて見ます。

    あいもかわらずニーチェの皮肉っぽい言い方だけど、彼が生きた当時空は彼から見たら腐ってたのかもね。

    わたしが関心がるところは以下のところ。

    【彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。・・・「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしてした】

    この部分をわたし言いかえると。

    カントは、「《先天的》総合判断」という、人間のうちに、新しい「一つの能力」を発見した。さらに、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」と自問した。そしてカントは廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってして、答えた。
    ニーチェは思った。まわりくどく言わなくてもはっきり、一つの能力によって、って言えばいいじゃん、と。

    「一つの能力」は「《先天的》総合判断」のことだから、

    「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」に対する答えは、「《先天的》総合判断」という能力を人間はもっているから。となる。これって、廻っちゃってる。

    そこで、【「一つの能力によって」――とカントは言った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか】に、つながるんじゃないかしら。


    ここでは《先天的》って訳してあるけど、私が読んだ小牧治氏の「カント」の『純粋理性批判』のなかでも「先天的綜合判断」って書いてある。中島さんのでは「超越論的」と訳すべきだ、的みたいだけど。先人たちは「先天的」って訳してたんだなー、て。

    先天的、先験的、ア・プリオリ、の意味について、わたしのあるんだけどまたいつか。あ、それと「客観」もね。

    お忙しいところ、ごめんでした。

引用返信/返信 削除キー/
■3832 / inTopicNo.44)  Re[20]: Tシャツとジーンズ姿で
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/11(Sat) 16:39:07)
    pipitさま
    ふと、わたしに浮かんだことここで書いちゃう。

    ニーチェの文で、ちょっと思ったんだけど、「我を忘れて」って書いてある。
    我を忘れるとカント的になるのかな〜?

    「物自体」とか「物そのもの」って訳されてるけど、「者」じゃなくて「物」について、っていうことなのかしら?

    自問、ここで書かせてもらっていい?他も見てるんだけどタイプじゃないし。 
    返信なし、っていうことで。できるだけ『純理』に関することだけにするから。
引用返信/返信 削除キー/
■3833 / inTopicNo.45)  カント
□投稿者/ minori -(2020/07/11(Sat) 16:54:09)
    カントの功績。


    「認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う」という常識を覆す視点を打ち出した。

    カント以前は、神が作った人間なので、客観=主観として認識できる(デカルト)であったり、ヒュームとかの経験論はなんだっけ・・・う〜ん、本を見ないとわからん。。

    純理、めっちゃややこしい記述になってるみたいだけど、それは必要だからそうしたんだと思うんですね。(すっごい素朴なこと言ってます。すみません。)
引用返信/返信 削除キー/
■3834 / inTopicNo.46)  Re[21]: Tシャツとジーンズ姿で
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/11(Sat) 17:08:27)
    2020/07/11(Sat) 17:39:30 編集(投稿者)

    横レス失礼します。

    No3832に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま
    > ふと、わたしに浮かんだことここで書いちゃう。
    > ニーチェの文で、ちょっと思ったんだけど、「我を忘れて」って書いてある。
    > 我を忘れるとカント的になるのかな〜?
    > 「物自体」とか「物そのもの」って訳されてるけど、「者」じゃなくて「物」について、っていうことなのかしら?

    悪魔さん引用文「そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。・・中略・・要するにーー《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった・・・」

    同じ個所の和訳は別の書籍では以下のようになっています。

    「のみならずひとびとは、この新しい能力を喜ぶあまり有頂天となり、カントがそのうえさらに人間の道徳的能力をも発見するに及んでは、歓喜の叫びは絶頂に達した。・・中略・・つまり──〈感覚をまどろませる〉ものを手に入れたということで有頂天の悦びようであったのだ・・・(ちくま学芸文庫)」

    「人びとはこの新しい能力のことを知って我を忘れたし、カントがこれに加えてさらに、ある道徳的能力を人間のうちに発見したときには、歓喜の声はその絶頂に達した・・中略・・つまり─「感覚ヲマドロマシムルモノ」を手にいれて、人びとは歓喜したのだった・・・(白水社)」

    原文のドイツ語がどのような表現になっているかによるとは思いますが(私は知りません)、前後の文脈からすれば、この「我を忘れ」というのは、ちくま学芸文庫の訳による「(我を忘れて)有頂天になった」、「喜んだ」ということではないでしょうか。

    もう少し深読みというか意訳すれば「(そんな能力などないのに)自分を省みることなしに」とか「身の程知らずにも」という意味の「我を忘れて」かもしれません。

引用返信/返信 削除キー/
■3835 / inTopicNo.47)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 17:37:21)

    パニチェさんへ
    いつも解説などありがとうございます(^O^)

    > いかにして先天的総合判断は可能か?人間の能力により可能となる。
    > 何故人間には理性が備わっているのか?人間は理性的な存在だからである。
    >
    > ナンセンス!カントは上記のような新たな信仰を構築し、ドイツの道徳論を停滞させた。
    > 今や、ここを見直すべき時に来ているのではないか?ってことをニーチェは述べているのだと思います。<

    今の段階でのpipitの私見を書いてみますね。

    元々のカントの思想としては、
    人間にとってのアプリオリな総合判断は、人間の感性によって得られたものに対して、人間の悟性によって得られる概念を適用させる過程においてのみ可能としている、と、
    私は今の時点では思っています。

    ここですごく大切なのは、【感性によって得られたもの】が必要不可欠としてるところだと私は思います。

    人間の能力によって、と言っても、
    感性に現れるものを欠いたまま、
    人間の能力である知性のみで、アプリオリな総合判断が得られるのではない、
    逆に、知性のみで、究極を考えるとアンチノミーになる、と、カントは主張した、と思っています。

    本来のカントの説は、このように感性の契機を大切に考えてるものだったのに、後に続く一部の人たちが、
    人間の知性の信仰にカントを持ち出した面があるのではないかと私は思っています。
    中島義道先生のそのような記述も読んだことあるので、興味あれば探して引用しますので何時でもおっしゃってくださいね(^o^)


    > ニーチェが最も気に入らないのは最終的にカントが神を持ち出したことです。
    >
    > 以下は私の意見です(ニーチェの影響もありますが。。)
    >
    > デカルトの第一原理も、カントのコペルニクス的転回も、歴史に残る哲学的な大仕事をやってのけたが、両名と前期においては神を棚上げした偉大な哲学を試みたが、最終的に神を持ち出した時点で思考停止に陥っている。<

    実践理性批判はまったくかじれてもいないので、きちんとしたことは言えないのですが、
    神様が道徳を指令した、みたいな単純な話ではないと思います。(それはニーチェもわかっているのかなとは思いますけど。)
    人間は自分で善悪を判断でき、自分の意志で道徳行為を選択できる。
    根拠は自分自身の内にある、と、言ってるんじゃないかなー、と思っていますが、
    ここらへんから、ニーチェに批判される弱さになるとおもうのですが、弱気になって、道徳実践するには理性は神様みたいなものを要請する、と、もしかしたら言ったかもしれませんね。
    やっぱ、善行したら報われたいやん?って。

    でもですねー、カントの記述はなんでも本当複雑なんですが、もしかしたら、そういう考え方は道徳を実践するにあたって弱い理性にもわかりやすく背中を押してくれる、的な文脈の可能性も私は考えています(実際に読まないとわかりませんけど)

    カントの時代はまだ宗教に関してデリケートな時代で、
    カント自身、宗教論で発禁になったり、年金(?)ストップされそうになったりしたみたいです(^_^;)
    青少年に悪影響みたいな理由で王様からなんか出されてた時もあったようで、いろいろ苦労して、自分の著作を世に出してたところもあったみたいだから、
    ちょっと一筋縄では読み解けないなーと私自身は思っています。
    (ある時代に、特に宗教論絡みで目をつけられてたみたいです)

    まあ、ニーチェの方がストレートでかっこいいのかもですけど、
    そのうち自分でカントの善悪に対する思想を読めたらいいな、と、思っています。

    このように、自分の考えを思想的にストレートに伝えることのできる場を設けていただき感謝しています。
    ありがとうございます(^人^)

引用返信/返信 削除キー/
■3837 / inTopicNo.48)  Re[20]: 一つの能力
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 17:56:23)
    悪魔ちゃんさんこんにちは!
    ジメジメだね、今日湿度計で99パーセントって出てたよ。
    あの表示ホントなのかな〜


    > わたしが関心がるところは以下のところ。
    >
    > 【彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。・・・「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしてした】
    >
    > この部分をわたし言いかえると。
    >
    > カントは、「《先天的》総合判断」という、人間のうちに、新しい「一つの能力」を発見した。さらに、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」と自問した。そしてカントは廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってして、答えた。
    > ニーチェは思った。まわりくどく言わなくてもはっきり、一つの能力によって、って言えばいいじゃん、と。
    >
    > 「一つの能力」は「《先天的》総合判断」のことだから、
    >
    > 「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」に対する答えは、「《先天的》総合判断」という能力を人間はもっているから。となる。これって、廻っちゃってる。<

    廻っちゃってる、って、いい表現だね
    すごく状態を顕わしてる言葉に思えるね。



    > そこで、【「一つの能力によって」――とカントは言った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか】に、つながるんじゃないかしら。<


    > ここでは《先天的》って訳してあるけど、私が読んだ小牧治氏の「カント」の『純粋理性批判』のなかでも「先天的綜合判断」って書いてある。中島さんのでは「超越論的」と訳すべきだ、的みたいだけど。先人たちは「先天的」って訳してたんだなー、て。<

    うん。それぞれの時代の人が一所懸命考えて漢字を当てていったこととか想像する時があるよ。
    明治時代の人が西洋哲学に出会った時とかね
    そういえば、メルロさんはいつの時代の人なのかなー

    > 先天的、先験的、ア・プリオリ、の意味について、わたしのあるんだけどまたいつか。あ、それと「客観」もね。
    >
    > お忙しいところ、ごめんでした。<

    こちらこそいつも貴重な経験をありがとう。
    悪魔ちゃんさんにとっていいふうに思える情報、何も提供できずにごめんね

    タイピングとか無理しないでね、
    本当にありがとうです。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -