| 悪魔ちゃんさん引用ありがとね。 中島先生の文章の読解も続けるけど、 先にこのニーチェさんの文章読んでみるね。
> いまや至る所で、カントがドイツ哲学に及ぼした本来の影響から眼を逸し、殊に彼が自分自らに認めた価値を巧みに滑り超えようと努めているように私には思われる。<
この彼、が、誰を意味するかちょっとわからないな。 カントに続く哲学者たちのことかな?
>カントは何よりもまず自分の範疇表を誇りとした。彼はこの表を手にして言った。「これこそはかつて形而上学のために企てらえた最も困難なものである。」――どうか、この「られえた」という言葉を理解してもらいたい!<
可能、という意味かな。
>彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。彼がこの点で自ら誤っていたとしても、やはりドイツ哲学の発展と急激な開花は、この誇りに負うものであり、また、できうべくんば更により誇らしいものをーーとにもかくにも「新しい能力」を発見しようというすべての後学の競争心に基づくのだ!<
人間の能力への誇りが哲学を活気づけた。 さらなる人間の能力を我先に発見する野望とともに、哲学が展開していく。
>しかしよく考えてみると、今がその時である。「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしてしたので、そういう答えのうちに潜む愉しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。<
いかにして先天的総合判断は可能か、には、人間の能力により、ですむものを、 回りくどくもったいつけたカッコつけた文章で表現したので、人間の能力により、という答えに潜む、ドイツ語風の愚かさは聞き漏らされた。
>そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。――当時ドイツはなお道徳的であって、全然まだ「現実的・政治的」ではなかったからだ。――<
人間の能力に悦に入り、人間の内にある道徳的能力をも発見したとカントが思った時、喜びは頂点に達した。 当時ドイツは道徳的であり、現実的・政治的ではなかったからだ。
>ドイツ哲学の蜜月が到来した。テュービンゲンの神学校の若い神学者たち(若いシェリングやヘーゲルを指す)はすべて直ちにその藪の中に入り込んだ。――皆の者が「能力」を探し求めた。そして見つけ出さぬものとてはなかった。――<
みんなが人間の能力を探すことに夢中になった。
>ドイツ精神のあの無邪気で、豊かで、なお若々しい時代においては、浪漫主義という意地の悪い妖精が当てもなく笛を吹いたり、歌いまくったりしていて、当時は「発見」と「発明」との分け隔てもまだつけられなかったのだ!<
発見は、すでにあるものを見つける。 発明は、まだないものをつくる、かな?
>なかんずく「超感性的なもの」に対する能力が発見された。<
哲学者たちは、感性や身体を超えたものに対する能力を発見した。
>シェリングはそれに知的直観という名で洗礼を施し、それによって根っから信心を求めてやまぬドイツ人の衷心からの欲情に迎合した。<
人間の能力は神様並みとすることは、結局は、神様を求める人間の欲望に迎合して神様の存在を召喚させることだった、ということかな?? ここらへんは不勉強すぎてわからないな。
>この全く思いあがり逆(のぼ)せあがった運動は、灰色の年寄じみた諸概念の衣で思い切った装いをしていたにもせよ青春であったのだから、これを真面目に受け取り、まして道徳的な憤激(激しくいきどおること、ひどく怒ること)なんかで遇するのは、全くこの上もない不当の処遇と言わなければならない。<
運動って、知的直観の思想のことかな? 人間に知的直観が備わるという思想を、まじめに受け取り怒るのは不当ってことかな? それとも違うことかな?
>それはとにかくとして、人々は老いた、――夢は飛び去った。額(ひたい)を撫でて考え込む時がやって来た。人々は今日といえどもなお額を撫でている。夢を見ていたのだ。<
人間に能力があったという夢は去ったということかな?
>それは誰よりもまずーー老カントだった。「一つの能力によって」――とカントは言った。少なくともそう思った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。<
アプリオリな総合判断はいかに可能か? 能力によって。 では能力ってなに? アプリオリな総合判断ができることだよ、ってことかな。 ?
>果たして阿片はいかにして眠らせるのか。「一つの能力によって」、すなわち《催眠力》によって、――とモリエール*の作中の医者は答える。 《そのゆえは、それに催眠の力ありて、その力に感官をまどろます性(さが)あれば。》 しかしこのような答えは喜劇に属する。<
?
>それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。<
アプリオリな総合判断に対する信仰がなぜ必要となるのか、という問いを補充すべき時だ。ということかな。
>――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。<
生命保持のため、アプリオリな総合判断を真理のように人間は信じる、ということを理解すべき時だ。
>それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!<
生命保持のために信じるゆえに、 別にアプリオリな総合判断が誤った判断でもいいのだ。 絶対的真理として、成り立たなくていあということかな?
>或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。<
あらゆる意味でアプリオリは無理もいうことかな? 欲望に規定づけられた、総合判断だから。
>われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤な嘘の判断である。<
先天的は、嘘だということかな。 生きる欲望が先にある、ということかな。 ?
とりあえずここまでの文章推測を書いてみました。 続きはまた読ませてもらいますね。
おやすみなさい(o^^o) ☆彡
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