| 2023/09/16(Sat) 09:39:28 編集(投稿者)
おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。 返信遅くなりました。
> うーむ。 > 「時間差でもってわかる」ってのが、いまいちわかんないんですよね…。 > どうやってわかるのか? > また、そもそもそれは〈私〉なのか?〈私〉だと言えるのか?
他の誰でもなく私が眠っていたことが分かるから〈私〉もあったのではないかってことなんですけど、「私がある」もしくは「私があった」ところに「〈私〉もあった」と考える方が辻褄は合います。 逆にザビビのふくろうさんは、睡眠や意識がなくなっていたのが自分であったと、どのような根拠でもって分かりますか?それとも「私はなかった」ので、「私が意識をなくしていたのは分からない」という感覚でしょうか?
> 例えば、夢遊病の人が夜、眠ったままの状態で徘徊し、目が覚めたときに全くその記憶がないとします。 > このとき、徘徊したのが〈私〉ってわかるのでしょうか? > あるいは、ジギルとハイドのような多重人格の人が、主人格が意識を失って別人格にとってかわられているときに行った殺人を全く覚えていないとすると、どうでしょう? > 意識が戻ったとき、別人格の自分も〈私わ〉とわかるんでしょうか?どうやって?
夢遊病や解離性同一障害を私は実体験してないので、これは想像ですが。。。 他者の〈私〉、(本来は他者の〈私〉なんてことはありえないんですが)を>私<と表記するとして、別人格の〈私〉は>私<なんでしょうね。 但し、解離性同一障害には治療への協力を惜しまない全人格を把握している内的自己救済者(Inner Self Helper)という人格もあるようで、別人格の〈私〉を他者の>私<と同一視していいのかはよく分かりません。
> もう少し原理的に考えます。あ > 〈私〉とは、ふくろうの理解では、絶対の「〈今〉,〈此処〉に,〈存在〉する」〈私〉であると思います(違っていたらご指摘ください)。
そうです、異論ありません。
> そしてこの〈私〉であれば、直知できるがゆえに不可疑な存在として確信できるのはわかりますが、覚醒した〈私〉にとって意識のない状態だった私は、過去存在であって既に直知対象ではありえず、したがってデカルト的懐疑をかけられたら疑惑を払拭することは不可能なのでは?と思います。 > 実際、多重人格者にとって、別人格の自分はむしろ他人なんじゃないかと思うんですけどね。
解離性同一障害については同意します。 確かに「〈私〉があったことが分かる」ってのは上記の定義からすれば矛盾してますね。 ただ「私があった」から「私が眠っていた」ことが分かるわけで、〈私〉はなかったが私だけがあったてのもしっくりきません。 私と〈私〉は不分離ですからね。
> まあ、ショーペンハウアーは独我論者ではありませんしね。 > ですが、〈私〉はどうでしょう? > 「そこから世界が開けてくる唯一の原点こそが、すなわち〈私〉だ」(『〈魂〉に対する態度』187頁) > この〈私〉の規定も、誰にでもあてはまりますよね。 > この規定が永井均ただ一人に当てはまらねばならない必然性などありません。 > これは永井も認めていたと思いますが、それは偶然です。 > つまり、世界開闢の原点は誰でもありえるということです。
そうです。
> これは私の推測ですが、これについてもパニチェさんは肯定すると同時に、いわば言語化の限界として、一般化されてしまうがゆえで、本来語り得ぬものを語ることによる避けがたいズレである、と言われるかもしれません。
そうです。
> ですが、問題は、じゃあ、なぜ語り得ぬものを語るのか?ということです。 > 本来言語を超越しているもの――例えば神――を絵に描いたり像を作ることはまさに「偶像化」であり、『論考』でも「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」と言われています。 > そして「独我論が言おうとしていることは正しいが、それは語られ得ず、示されるだけである(T:5.62)」とも言われています。 > 独我論が言おうとしていること、すなわち「世界=私の世界(生)=私」ということは、語られ得ないのであるから、絵にも描けないわけです。 > そしてウィトゲンシュタイン自身は、 > 「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」 > と述べています。 > であるにもかかわらず、なぜ、あえて、永井は絵を描こうとするのか?
禅宗で言うところの公案とか禅問答(禅宗の僧が悟りを開くためにおこなう問いと答えのやり取り)みたいなものですね。 〈私〉を理解している人には同類であることが分かるし、〈私〉について書かれた文章は自分事として読み替えることができます。 永井氏の〈私〉は読者からすれば、あくまでも>私<ですからね。
> この疑問についは、前回のレスで、パニチェさんは自分の考えをきちんと答えてくれました。 > これは非常に興味深い回答だったので、下であらためて取り上げたいと思います。
了解しました。
>>以下、まどろっこしい返信になりますが、自分なりに正確に返信させてもらうためにタラタラとカキコしてみます。 >>形象化というのを「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること。(コトバンク:日本国語大辞典)」とするなら、完全同意ではないですが条件付きで同意できます。 >>まず図6つまりマッハ的光景の側面図なんてものはありえないです。 >>それは永井氏も理解はしているだろう、と、想像します。
> 上に述べたように、一応パニチェさんの意図は理解したと思います。 > 要は、語り得ぬものを語ってしまっているわけだから、真の独我論モデルではありえないことは、永井も承知の上だろうということですよね。 > しかし、問題は、永井が、『論考』の独我論は、こう理解されざるを得ない、としているところだと思います。 > つまり、あくまで『論考』の独我論の解釈としては、永井は図5を正しいモデルであると考えているということ。
そうですね。永井氏は独我論と〈私〉を前提とする独我論を「独在論」という表記で区別しています。何れにしても変質(頽落)してしまうのは同じなんですが。。。
> 「『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。」(『ウィトゲンシュタイン入門』83頁) > 図5としてモデル化された独我論が「一般的自我の独我論」ですよね。 > モデル化されたからこそ〈私〉は「一般的自我」にいわば頽落しちゃったということでしょ?
そうですね。
> でも、これ、明らかにおかしいでしょう。 > だって、永井の言う「一般的自我の独我論」になったのは、永井がウィトゲンシュタインの言葉に反して勝手に絵を描いた=モデル化したからですよね。 > 「少なくとも、そう読まれざるをえない。」などと断定してますが、それは読解力の問題にすぎません。と私は思います(笑)
なるほど。
> 「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」 > ここで「示されている」と述べられている独我論を勝手にモデル化して解釈してしまったがゆえに、永井の言う「一般的自我の独我論」、いわゆる「語られた独我論」ってことになってしまっているわけです。 > つまり、本来『論考』が否定している独我論を、永井は『論考』の独我論であると主張しているってことです。というのが、私の見解です^^
その可能性には同意します。 私からすればウィトゲンシュタインに〈私〉の同類者と嗅ぎとれるのは『「個人的経験」および「感覚与件」について』や『哲学探究』からなんですね。 少なくとも写像理論を前提とした『論考』では嗅ぎとれない。おそらく永井氏も同じなんだと思います。 写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?『論考』での「語りえないもの」とは写像としての言語の網の目をすり抜ける対象として捉えていたように(永井氏のウィトゲンシュタイン論を)私は解釈しています。
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>>では、何故「図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている」と述べ、ウィトゲンシュタインの眼の図5を元にして永井氏の独在論として形象化したのか? >>これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。
> 実情は、繰り返しますが、そのことによって『論考』の言う、『示される独我論』がすっかり隠蔽されてしまった、ということだと私は思います。
>>客体化した図に表すことができないのが〈私〉です。 >>「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法(ウィトゲンシュタインの独我論)と媒体(眼の図)によって明確な形として表現」したのではないか? >>だから、本来は永井氏も「〈私〉はけっしてこのような形をしていない」というべき図5だと思います。 >>まあ、これは永井氏に確認してみないと分からないことですが。。。
> 上に二つのパラグラフとして挙げたパニチェさんの見解は、私にはきわめて興味深いものでした。 > というのは、これは、『ウィトゲンシュタイン入門』(71-73頁)に永井が取り上げた、いわゆる『キャロルのパラドックス』の話と、非常によく似た構造が見て取られ得ると思われたからです。 > 詳しい話は同書を参照していただくことにして省略しますが、 > この話の要旨をむちゃくちゃ乱暴にまとめると、アキレスが、カメに推論が本当に正しいということを納得させるために、カメの要請で推論を正当化する論理法則を推論の前提として書き入れたことによって、無限背進に陥ってしまうって話です。 > この話から得られる教訓を、目下の問題と類比して述べますと、 > 本来、語り得ぬ論理法則(仮に「メタ事実」とします)を語ってしまったがゆえに無限背進に陥った、ってことになります。 > これは、「私は私の世界である」という語り得ぬこと(メタ事実)を、言語化(モデル化)してしまったがゆえに「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥る永井ときわめて似ています。 > つまり、 > 「これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。」 > という解釈の通りだとすると、次のような同型ともとれる関係が二つの話には見出せると思うのです。 > 「これはアキレスがカメに論理法則の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた命題であるってことだと思います。」
> アキレス∽永井 > カメ ∽ 読者
> つまり、アキレスがカメを納得させるために、本来語り得ない論理法則を語ってしまって無限背進に陥ったように、 > 永井が読者に説明するために、本来語り得ない独我論を語って「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥ってしまったということ。
その可能性はあると思います。 一方で繰り返しになりますが『論考』には〈私〉に関する公案あるいは禅問答めいた文章が記されてないために一般的な独我論としたように思います
> もちろん、ウィトゲンシュタインは、論理法則は語り得ないということをわかっていました。
ここもう少し詳しく教えて下さい。 論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか? 一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?
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> 〈私〉がモデルではなく、「〈私〉と世界」をどういうモデルで考えているのでしょう?という質問でした。
了解しました。
> で、ビッグバン宇宙論の特異点と宇宙ということですね。
そうです。あくまで空間的な側面しとして特異点ってことです。
> これに関しても、ここまで言ってきたように、私として疑問なのは、やはり語り得ないものを語り得るものをモデル(宇宙論)にして説明すること、ということになりますね。 > 実際、この宇宙開闢には、時間が含まれるんじゃないでしょうか。
はい、物理の特異点は時空の特異点ですから時間も含まれます。
> だから、門外漢でもイメージしやすいですよね。 > そして、いや、「世界開闢の特異点としての〈私〉」の「開闢」には時間の意味はなく、空間の開けしか含意されていない、ということなら、やはり、図5のようなモデルでしか理解できないように思います。
ここも繰り返しになるんですが〈私〉を理解し、ビッグバン宇宙論を一般教養レベルで知っている人は「そうだ!」と共感できると思います。 だから永井氏も期せずして?たまたま?私と同じ表現「特異点」を使ったのだと思います。
> *********************** > ご存知かもしれませんが、参考までに、一つ補足を。 > 「キャロルのパラドックス」についての考察は、いろいろありますが、 > 目下の問題と深く関わるであろう観点から詳細に考察したものとして、次があります。 > 『相対主義の極北』(入不二基義)(勁草書房) (文庫がちくま文庫かなんかにあるかも)
> これは、入不二基義さんだけあって、私見なんですが、実は、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を肯定することにつながるような、『キャロルのパラドックス』についての詳しい考察があって、パニチェさんにとっても面白いかも、と思います。 > ただ、論理式が出てくると読む気が失せる、というタイプの人には向かないと思いますので、そこはご注意ください。 > 伺ったことなかったですが、パニチェさんは、どうでしょう? > 『論考』でも、論理学がテーマのところは大丈夫ですか?
論理学関連本は何冊かは読みましたが理解はイマイチです。 よって『論考』の論理学がテーマのところは正確に理解できているとは思えません。^^; ちなみに先の『キャロルのパラドックス』の話は理解しているつもりです。
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