| 2022/08/21(Sun) 22:36:56 編集(投稿者) 2022/08/21(Sun) 22:35:22 編集(投稿者)
みなさまこんばんはー(^_^)
No 25706 > 御子柴善之先生の純理解説本p210、御子柴先生の解説小題は〈判断は統覚による客観的統一を目がけてくだされる〉 > > 繋辞〈ある〉・・・AはB〈である〉 > この〈ある〉は何か、、、 > > まずカントの文章の御子柴善之先生訳を引用させていただきます。 > > (カントの文章) > 『判断における繋辞(けいじ)「ある」は、この統覚の客観的統一を目指すものであり、それによって所与の諸表象の客観的統一が主観的統一から区別されることになる。 > というのは、この繋辞「ある」が、所与の諸表象の根源的統覚への関係を表示していて、またたとえ判断そのものが経験的でありしたがって偶然的であるとしても、諸表象の必然的統一を表示しているからである。(B141f)』 > > この後御子柴先生の解説文章を引用しますが、明日以降になるかもしれません。 > 主語概念と述語概念が〈ある〉で結び付けられるのですが、客観的判断においては客観を目がけて結合される、みたいなこと書いてあるかんじですが、また引用しながら理解にチャレンジしてみます > o(・x・)/
ということで、次は御子柴善之先生の解説を引用します。※一部のある、についてた強調記号は省略します。
『 ある人がドッジボールについて、〈ドッジボールは小学生時代の陰惨な一場面に思われる〉と語るとしても、それに反論する人はいません。ひとはその発言を、あの人はそう思うんだと受け止めて終わりです。 しかし、ある人が、〈ドッジボールは小学生時代の陰惨な一場面である〉と判断するなら、その判断には異論が提起される可能性があります。
その人にとって主観的にはそのとおりかもしれませんが、ドッジボールにかんして客観的に語るなら、〈ドッジボールは体育競技のひとつである〉と判断すべきであると。
この反論を行う人は、もしかすると、小学校の体育の時間に行ったドッジボールは楽しかったと主観的に思っているかもしれませんが、その思いは別にして、客観的にドッジボールにかんする判断を下しているのです。 この例から分かるように、繋辞「ある」において、判断は客観性を目がけるものになり、それゆえに反論の可能性も生まれるのです。(注2)
主観的な思いと客観的な判断とを私たちは区別できます。 前者においては、主語概念(ドッジボール)と述語概念(小学生時代の陰惨な一場面)とが連想によって関係しているに過ぎません。 他方、客観的判断においては、主語概念と述語概念(体育競技のひとつ)とが客観を目がけて結合されています。 しかも、このような結合の場は、私たちの、権利上は〈一つの意識〉なのですから、判断は「統覚による客観的統一」を目がけて下されるのです。以上のようにして、判断を手がかりとして、私たちは統覚と客観との関係を明らかにすることができました。
(注2)以下で、客観を「目がける」という表現を用いますが、これは目がけたとしてもつねにそれを実現するとは限らない、という事態を見込んだ表現です。私たちは、客観的な判断を下そうとする場合に、それが誤りでないかどうかを気にかけます。それが「目がける」ということです。』
以上『シリーズ◆世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p211.212より引用
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「AはBである。」 「AはBと思う。」
カントは、特徴の特徴は元の事物の特徴、みたいなことを三段論法の論文で言ってた記憶ありますが(再確認してないので間違えてたらすみません!) それは一つの系列となるイメージを私は持っていますが、 その特徴が客観なのか主観なのか、わたしたちは話し合いできるのが「科学の場」なのかもしれませんね。 反証の可能性が確保されているとか? 全部うろ覚えで書いてるので、めちゃくちゃ言ってたらすみません!
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